第9話 さくらさん、と
「トシシュン」
桜子は笑いを堪えながらそう言った。
金色の髪の少女が、葉桜の公園のベンチで芥川龍之介を読んでいた。私はなぜかそれがとても葉桜に似合う気がした。
もし満開の桜の下なら、芥川は似合わないと私は思う。喧騒が落ち着いた季節の深い緑色の桜の下は、暖かくなり始めた季節と相まって人生に想いをふけるのにちょうどいい。これが秋の枯れ葉の道なら、悲しみと絶望へと導かれそうだ。
「古典が好きって、なんかうれしい」
私は素直な感想を桜子に伝えた。
「先生も芥川龍之介、好き?」
桜子は照れながらいう。春の風に揺れる金色の髪が綺麗だと思った。
「だから国語の先生になりたいって思ったんだよ」
そうだ。私たちは中学で盛んに古典文学を読み合った。特に太宰や芥川龍之介は二人とも好きだった。
「やっぱり文学少女だったんだ」
私とおんなじだという顔をして桜子がそう言った。
「国語の先生になりたい人で本が嫌いな子はいないよ」
泣きはらした顔で一人前のことを言っても説得力はないかもしれない。それでもいい。私は本が大好きだったことを桜子に伝えたい。私も今の君と同じだったと伝えたい。そして。
——君の唇が、ただただ本が好きな昔の私に引き戻してくれた。さくらといつも一緒にいた、一番大事で、自分から失ってしまったあのときに。
「桜子ちゃん、ありがとう」
私がそういうと彼女は、
「もう名前も覚えてくれてたんだ。」
とうれしそうに笑って言った。笑うと、やっぱりさくらとは違う顔だとはっきりとわかる。
「あんなに泣き出すなんて思わなくて。どうしていいか困っちゃって」
苦笑いをしながら桜子がいう。
「ちょっと昔の心の琴線に触れちゃって」
「大人になってもあんなに泣くことあるんだね」
ポツリと桜子がうつむいたまま呟く。
「……25年分の涙、かな。大人になって初めて泣いた」
「25年前? 何かあったの?」
あれだけみっともない姿を見せた私は、桜子にはなんでも話せそうな気がしていた。
「高校2年の終わりに、この場所で。このベンチで」
詳しいことはいうつもりはない。でもこの場所がとても大事な場所であったことは伝えておきたい。そのつもりだった。
「さくらさんと、だよね」
まさか桜子の口からその名前が出てくることを予想もしていなかった。言葉が出なくなる。何も言えず、じっと見つめあってしまう。
「なぜ、その名前を」
それだけいうのが精一杯だった。
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