第8話 セカンドキス

 私が両手で掴んでいた桜子の腕を離しても、私の涙はいつまでも止まらなかった。気がつくと桜子は私が離した腕を私の肩に回して、倒れそうな私の体を支えているのがわかった。


「先生、なんでそんなに泣くの」


 自分はそんなにひどいことを言ったのかと思ったのだろう。その心細そうな少女の声に、私もやっと自分を取り戻さなければと大きく呼吸をした。

 だが、私を一生懸命なだめている桜子の顔が、男女なら間違いなくそのままキスをするだろうというほどの至近距離にあった。その桜子の顔があのときのさくらの顔と重なり、一度平静を取り戻しかけた私の心は、あのキスの後の自分を思い出し、再びひどく動揺した。

 止まりかけていた涙がまた溢れてくる。


 そのとき私の肩に回した腕に力が入り、桜子の顔がグッと近づいたと思うと、私の唇に彼女の唇が一瞬触れたのだ。

「先生、お願い。落ち着いて」

 桜子は、その柔らかい唇をそっと離し今度はその両手で私を抱きしめると耳元で囁くように言った。


 不思議なことが起こった。私の心が少し落ち着いてゆくのだ。溢れ出ていた涙が少しずつ引いてゆくのがわかった。


「あ、ありがとう。もう大丈夫」

 桜子の顔はまだすぐ近くにあったが、むしろそれが私を安心させる。


 本当はさくらに守ってもらえていることが私はうれしかったのに。

 本当はたくさんの通りがかる人に見られていたことに動揺しただけだったのに。

 恋愛とは違うキスもあったはずなのに。


 私は桜子のキスを素直に受け入れることができた。

 私が落ち着いたのがわかったのか、桜子は優しく笑顔を見せるときつく抱き寄せた腕を静かに緩めたが、まだ解きはしなかった。


 葉桜の季節になり、この小径を歩く人がほとんどいないようだ。おそらくこの女子高生と大人の私とのキスを見ていた人もいなかっただろうと思うが、今日の私は恥ずかしささえもどこかに忘れてしまったらしい。


「先生、私、先生にひどいこと言っちゃった。ごめんなさい」

 桜子が私の目を見ながらいう。相変わらず私たちの顔が近い。でも嫌じゃない。初めて桜子と出会った教室のあの時から、私はさくらへの本当の気持ちを、同じ横顔の桜子に埋めてもらうことを求めていたのかもしれない。


 私はどう返事していいのかわからず、ふと思いついたことを口にしてしまった。

「なんの……」

「えっ?」

 私の泣き声まじりの呟くような声に、桜子が訝しげに首を傾ける。

「なんの本を読んでたの」

 やっと言葉にできた。

 桜子は一瞬キョトンとし、それから私を抱きしめた右腕をほどき、左腕だけを私の肩に回したまま、大声で笑い出した。

 ひとしきり笑うと、おかしすぎたのか溢れた自分の涙を拭いながら、

「えーっ、今それ?」

と言いながら、再びケラケラと笑い出したのだった。

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