夜桜の復讐

史澤 志久馬(ふみさわ しくま)

夜桜の復讐

 また、花びらがはらはらと舞い落ちた。誰もが思わず足を止めて見とれてしまいそうな、爛漫と咲いた河川敷の桜。夜空とのコントラストによって、その美しさが一層際立っている。

 しかし、そんな桜など目にもくれず早足で歩く男の姿があった。男の顔は険しく、同時に確固たる目的をもった、らんらんと燃える目をしていた。男の頭の中は、復讐の二文字に支配されていた。



*****



 高校生まで男子校に通い、大学も九割男の理工学部に進んだ俺にとって、女性というのは未知で、かつ遠い存在だった。大学の同級生で彼女ができたという話を聞くこともあったが、そんなものは別次元の話であって、俺のような女心の一つや二つもわからない地味男には一生縁のない話だと思っていた。

 そんな俺の世界を変えたのが彼女との出会いだった。駅前の繁華街を歩いていたときに、声をかけられたのだ。華やかで良い香りのする彼女に急に話しかけられたときは戸惑ったが、連絡先を交換し、何度か食事に行くたびに自分が彼女に夢中になっていくのがわかった。

 付き合ってくれないか、と切り出すまでにさほど時間はかからなかった。自分の大して面白くない話に笑ってくれて、プレゼントをあげると跳んで喜んでくれる彼女が、自分に好意を抱いていると確信できたのだ。もちろん彼女は受け入れてくれて、おそろいの指輪も買った。

 いつも自分と会うときに着てきた服のセンスの良さから、彼女がおしゃれ好きだということは容易に想像がついた。それまで全く考えたこともなかったブランド物のこともインターネットに世話になりながら調べ、彼女が欲しいと言うたびに馬鹿みたいに高い鞄や、アクセサリーや、洋服を買った。それまであまり金に困ったことがなかった俺にとっても大きな出費だったが、それでも彼女の喜ぶ姿、うれしそうに身につける姿を見るたびに、買ってよかったと思うのだ。俺はまず自分の娯楽費を削り、生活費を削り、食費を削った。大学の入学祝いに叔父からもらった腕時計も、通学に使っていた原付も売ってしまった。今となっては自分でも、熱に浮かされていたことがわかる。

 しかしこの三月になって事態は急転した。彼女の方から別れを切り出されたのだ。理由は「好きな人ができた」だった。

 何かの冗談だと思った。自分は今までこんなに尽くしてきて、欲しいと言われた物は多少高くても買ってきたではないか。全ては彼女の喜ぶ顔を見たいがためだ。自分がどれだけ彼女を愛していたかを語っても、自分が何でも買ってやると言っても、彼女は全く聞く耳を持たなかった。ただ、呆然と目の前のコーヒーを見つめる自分に対して一言、「じゃあ」とだけ言い残して去ったのだ。

 こんな無情な話があろうか?もちろんそれだけで諦めることはしなかった。何度もメッセージを送り、彼女が帰宅する時間には電話をかけ、彼女の住所にやり直したいと伝える手紙も送った。しかしメッセージには既読がつかず、電話も出てくれたことはなく、全く音沙汰がなくなったのだ。




 俺の目の前を、一組のカップルが通り過ぎた。女の方が桜がきれいと騒ぎ、男が川辺で危ないからおとなしくするようたしなめている。ああ、自分もあんな風に桜を眺めているはずだったのに。結局彼女とは一度も花見をすることがなかった。でも、こんな惨めな自分とも今夜でおさらばだ。後もう少しで、彼女は本当の意味で自分の物になる。

 俺は一軒のアパートの前で立ち止まった。この建物の二階に、彼女は住んでいるはずだった。春の夜の冷たい風が、髪をかき上げた。

 俺はアパートのギシギシきしむ階段を、一段一段ゆっくりと上っていった。誰か住民に会ったらやっかいだ。しかしそれも杞憂に過ぎなかった。俺は誰にも会わずにどこか厳かな気持ちのまま歩き、一番端の部屋の前で立ち止まる。

 呼び鈴を鳴らすと、中から彼女がやってくる足音がした。かと思うと、急に息を潜めるように静かになる。自分が相手だから居留守を使おうという魂胆か。そんなことはさせない。

「なあミカコ」

 俺は部屋の中に向かって呼びかけた。

「俺は納得していないよ。何で俺が、ミカコと急に別れなきゃいけないんだよ。ちゃんと話してくれよ」

「もう話したでしょ。ほかに好きな人ができたって」

「それはあんまりじゃないか」

 俺は彼女の言葉にかぶせるように主張した。自分の思いを、こんなに人に伝えたことは無かった。

「俺がこれまでどれだけ尽くしてきたか……!」

「そんなの私には関係ないでしょう?!」

 彼女はかつてとは異なる、冷たく一方的な口調だった。その固い声に、俺は思わずひるむ。

「関係ないってなんだよ!俺は、俺は!」

「大声で騒がないでよ。ほかの部屋の人に聞こえるじゃない」

「だからどうだって言うんだよ!」

 俺は先ほどよりも必死に叫んだ。こんなに自分のことを見て欲しいのに、彼女は俺では無く近所の人のことを気にしている。

「とにかく、ミカコが部屋に入れてくれるまで俺はずっとここにいるからな!」

「いいえ、迷惑だから帰って」

「なあ、なんでそんなに冷たくなったんだよ。前はいつも優しかったじゃないか。俺がミカコの欲しいものを全然買えなかったからか?それなら何かリクエストしてくれ。なあ、何でもするから。なあミカコ……」

 その時、目の前の扉が細く開いた。彼女の艶やかな顔が、中から覗く。

「ねえ、お願い。お願いだから帰って。もうすぐ彼が来るの」

「彼? 彼って誰だよ。何で俺じゃなくてほかの男が来るんだよ。好きな人って……あ、浮気してたのか? 俺と毎日会っていた時から、その男と付き合ってたのか?なあ、俺のどこがその男と違うんだ。教えてくれよ」

 何がスイッチになったのか、突然彼女の表情が豹変した。先ほどドアの向こうから聞こえた声のような、無機質な顔。

「ええ、そんなに望むなら教えて差し上げる。大体、あなたに近づいたのなんか金のために決まってるでしょう。どうして私みたいな人が、あなたみたいに格好良くもなく、運動もできず、金以外なんの取り柄もない人と本気で付き合わなきゃいけないの? 気色悪い。思い上がっていたあなたが馬鹿だったのよ。今回の人は顔は少なくともあなたよりはマシで、しかも社長の御曹司なの。だから、あなたには到底釣り合わない。わかった? わかったならさっさと帰って」

 彼女はそれだけ一気に言うと、ドアを閉めようとした。俺はとっさにドアを押さえ、閉めさせまいと抵抗する。二つの力が、しばし拮抗した。

「……っざけるな」

「は?」

「ふざけるなよ! 俺の気持ちも知らずに! 何が御曹司だ。また金のことしか考えていないじゃないかこのゲス女! 俺は、ミカコを愛していた。今でも愛している。それなのにミカコは俺じゃなく金ばっかり見ている。なんなんだ! 俺は、どうすれば……!」

 俺の叫びを、彼女は見下すような目で眺めていた。もう我慢ならない。

「……してやる」

「もう良いかしら? 私だって暇じゃないんでね」

「俺の言ってたこと聞いていたか?! 殺してやるよ。そうじゃなきゃミカコは俺の物にならない!」

 俺は腕に力を込め、ドアを開け放った。一歩彼女の方に踏み出しただけで、彼女の傲慢な顔が恐怖にすり替わる。俺が鞄からナイフを取り出すと、その表情はさらに顕著になった。

「やめて、来ないで!」

「俺に命令する権利は無い!」

 彼女は部屋の奥へ逃げ込んだ。俺もすかさず追う。クッションを盾に狭い部屋を逃げ惑う彼女に、幾度となくナイフを振り下ろす。そんな様子の彼女も、かわいいとさえ思った。もうすぐ、もうすぐミカコは。

 ちょうどそう思ったタイミングで、彼女は自分でその場に落としたクッションにつまずいて転んだ。俺はそのすきに彼女に馬乗りになり、胸に軽くナイフを当てた。頭の中は勝利の快感に満ちていた。

「お願い……。お願い、助けて。お願い……」

 少しの間、彼女と目が合った。先ほどの高慢な態度とは打って変わって懇願する彼女に、一瞬心を動かされかけた。

 しかしだ。ここで許せば、また同じことが繰り返される。それだけは、それだけは、俺のプライドが許さない。俺は彼女の目をまっすぐ見たまま、ナイフを振り上げた。

 その時、背後で物音がした。振り返るよりも前に、脳漿をかき乱すような衝撃を受け、目の前に星が散った。頭が痛くて、何が何だかわからないまま持ち上げられ、そのまま床に叩きつけられる。ぐへっと蛙のような声上げてあっけなく崩れ落ちたが、意識がもうろうとする中、なんとかして自分を邪魔した相手のことを探ろうとした。

「サトルさん! 良かった来てくれて。あたし、どうなることかと……」

 かつて自分に向けられていたのと同じ、彼女の甘々な声が響く。

「一体どうしたっていうんだ。こいつが前に言っていたストーカーか?」

「そうなの」

 ストーカー?何を被害者面しているんだ。自分の方が被害者なのに。俺は新たにわいてきた怒りを邪魔に入ったサトルとかいう男にぶつけようとしたが、驚くほどに体が動かない。少しでも頭を上げようとすると、猛烈な吐き気がした。その間にも彼女は得体の知れない男と近づく。そして互いの愛を確かめ合うかのような熱烈な接吻を交わす音。

「なにはともあれ、無事で良かった。こいつはどうする? 俺がこの場で片付けようか?」

「いいの。警察呼びましょう」

「でも……」

「サトルさんがこいつを殺したらあたし、サトルさんと一緒にいっぱい色んなことできなくなるでしょう? そんなの嫌よ。今助けてくれただけで十分」

「そうなのか?」

 相手は納得していない様子で、惨めなウジ虫のように転がっている俺を蹴った。俺は痛みにうめいたが、相手に仕返しをしてやろうという気にもなれず、ただ吐き気に縮こまった。

「わかった。いいか、ミカコが優しいから、今回のところは助けてやる。だが、次ミカコに近づこうとしたらただじゃ置かないからな」

 目の前は真っ白になったり、真っ暗になったりを繰り返していた。もう自分には何もできない。ここで寝っ転がってしょっぴかれるしか。

 意識を失う直前、俺は一度だけ目を開けて彼女を見た。彼女はいつもと同じような、妖艶な微笑みを浮かべていた。

 

 

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