第5話

——俺は

「帰らない」

睨むように眼差しを送る。アキは、困惑した表情で俺を見た。

 海が白い光に包まれる。昨日よりもさらに明るく、俺の心に呼応するように輝く。

「アキ、お前は何で俺を殺そうとしたんだ」

決死の覚悟だった。アキは俺より一回り大きく、その手には凶器さえ持っている。しかし、俺がなぜ呪われたのか。ひいては爺さんの死の理由を聞かないことには、俺は人魚に命を差し出すわけにはいかなかった。

 俺が読んだ文献には、続きにこう書かれてあった。

『——白髪ではない人魚の出没も目撃されており、これについての口承も残っている。証言によると、性格は獰猛かつ狡猾で、人を襲うという伝承もある。海の危険さを示した寓話的な話も残っているが、考証すべき点は白髪との接点である。白髪の伝承にもこの獰猛な人魚の存在が確認されており、逆も然りである。なにか特別な関係がそこにはあるのかもしれない』

 つまるところこの黒髪は、人間の血肉を喰らうのだ。俺の命は、この黒髪に預けようと思った。俺はアキを問いただす。

「お前は、爺さんに何をしたんだ」

「……。」

アキは答えない。いや、沈黙こそが答えだ。

「俺を呪うのは良い。別にこの命は惜しくない。捨てられて、春を見ずに死ぬつぼみの運命だった。それを生かしたのは、アキと爺さんだったろう。だから俺の命は、家族のために帰属するべきだと思っていた。爺さんが死んだ……いや、爺さんが殺された今、お前のために生きるべきだったのかもしれない。

 だが、それはできない。俺はアキのために生きようと思わない。それはお前が、爺さんを……父さんを殺したからだ!」

涙は溢れず、鼻筋を滑るように落ちた。雫は波にさらわれる。仄かに光る、海の飛沫と一体になった。

「……それは違う。俺はハルに必要とされたかったんだよ。俺もハルと父さんのために、ここまで生きてきた。それは同じだ」

「何が『同じ』で何が『違う』んだ! お前は結局、爺さんを蔑ろにして、命を奪ったんだろう!」

アキは、拳を固く握って、今まで見たことないような表情を浮かべた。それは間違いなく、憤怒や激昂を表す表情だった。

「俺が何も考えなしに、ただの利己的な感情の損得で、父さんの命を奪うと思ってるのか……? ……冗談じゃない! 俺が過ごしてきた地の底のような年月をお前は知らない。俺が、ハルや父さんのために、どんなに苦しい思いをしたのか、お前は知らない。お前は何一つ知らないで! そんな口を叩くのか! ハル、お前は、父さんの最期の言葉を知っているのか。俺はこの耳で聞いたよ。『自由になれ』と言ったんだ。俺はお前たちのために……必死に生きて、ここまで生きて……良いことなんて何もなかった。だけどそれは俺がお前たちに拘束されたからではない! 俺は自分の意志で! お前たちを守ろうとしたんだ!」

アキは月に叫ぶ。目には涙を浮かべている。俺は怯まず、言葉を返す。

「俺は聞いたよ。父さんの最期の言葉を。一人を生きるのが人間の本質なんだって。俺たちは互いをあまりに想い過ぎたんだって。そう言ってたよ」

 アキは俺の言葉を聞いて、うなだれた。目は虚ろで生気がない。そして、鉈を持つ手をゆっくり振り上げた。

「もういい。俺は疲れた。どうやったって、俺の努力は報われないんだ。俺を見てはくれないんだ。愛情も、実は誰かに貰うものではなかったんだ。愛してしまったから、愛を欲してしまったんだ。……もっと早くに、気付いていたらな。俺はただ、小さな幸せ一つで良かったのになあ」

アキは俺にめがけて、鉈を振り下ろすつもりだ。

「大丈夫。俺も、すぐ逝くから」

アキは切なく、笑った——

 瞬間。突風が吹き抜けたかと思うと、アキは防波堤の手前に吹っ飛ばされていた。その上には人魚……黒髪が、馬乗りになっている。

「悪く思わないでくださいね」

黒髪は俺を一瞥して、アキの喉元へ、その歯牙を突き立てた。声にならないアキの断末魔が、闇夜に響く。鮮血が飛び散る。仄暗い夜光虫を赤黒く染め上げている。

 俺は、アキとその上に乗ってアキの身体を貪り食う黒髪を直視できなかった。反対のほうを向いて、柔らかい肉と血管がちぎれる音と、関節と骨が折れる音を聞いていた。俺は……たまらなくなってへたりこみ、その場に嘔吐した。

 にわかに、海が明るくなる。すると先ほどから海の底の方へ隠れていた白髪が姿を見せた。人魚は困った顔をしている。それでも俺は、吐き気を収められず、あろうことか白髪の方へと戻してしまった。

 白髪は少し驚いた表情で、俺の顔を見た。俺は到底人に見せられないような情けない姿をしているだろう。涙も鼻水も一緒に出ている。顔面中から液が滴っているのだ。

 白髪は、ひたひたと俺の傍に近づいてきた。俺の胃液にまみれながら、岩場を登って、俺の隣へ来る。そして、座ったまま頭を垂れた姿勢の俺をそっと抱きしめた。白髪の体温を感じる。俺の身体は海と変わらないくらいに冷えているらしい。白髪は俺を抱きしめたそのまま、背中に向かって歯を立てた。ずぐりと痛むがすぐに止んで、代わりに大きな動悸が一回なった。

 人魚は、またしても黒い泥を吐いた。俺の汚物を隠すように、重ねて吐いた。昨日より少なく、粘性の無い泥だ。そして、俺の後ろから聞こえる咀嚼音が聞こえないように、その白い手で、俺の耳を覆った。

 そのまま、俺は目を閉じた。結果的に、アキの生きる理由を奪い、俺自身が生きる理由も失った。誰の声も聞こえない、誰の姿も見えない、本当の暗闇の中に、一人で浮かんで漂うようだった。……やはり俺たちは、父さんの言う通り、互いのことを想い合い過ぎたのだと思う。互いを想う愛は、いつしか茨のように纏わりついて、離れようにも離れられず、無数の棘に、無自覚の間、血を流していたのだ。俺はそれに気づけなかった。父さんは気付いても何もできなかった。アキは、気付いた時にはもう手遅れだったのだ。

「なあ、白髪。俺の言葉が分かるなら、一思いに俺を食ってくれないか。俺にはもう、生きる希望も、願望も、理由もない。——どうにしたって、俺は海に身を投げるつもりだ。」

 白髪は、俺はきつく抱きしめた。どうやら、俺の言葉が分かるらしい。それとも、俺の心が分かるのかもしれない。俺も、白髪の背中に手を回した。光を集める透き通った肌に触れる。仄かに暖かい。ずっとこうして、温もりを感じていたかった。

 俺は、自分の着ている服を裂いた。上半身を露わにする。首から肩にかけての厚い肉をさらけ出して、白髪の顔にうずめるように、腕に力を入れた。

 すると白髪は、少し時間を経って、今度は俺の顔になだらかな肉を押し付けた。

 ——俺も、これを食うのか。俺が人魚の肉を食うというのは、それなりの意味があるのだろう。これを了承して、歯を立てて甘噛みをする。

 白髪の方も、俺と同じくらいに顎の力を強めた。そして俺たちは、長い時間をかけてお互いの肉を食った。

 ずきずきと痛む。少しの風にも塩が沁みて跳び上がりそうだ。目の前にある、白い人魚の肉も、赤い血がどくどくと流れ出ている。

 白髪は、力強く俺を抱いて、そのまま海の方へ身を投げ出した。俺も離れないように、抱き返す。深い海の底へ、頭から潜っていく。俺は長い白髪に囲われて、薄く笑う人魚と見つめ合った。俺は消えゆく意識の中、どこか心地よい気分で、うっとりと目を閉じたのだった。

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人魚 依田鼓 @tudumi197

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