第4話

 俺は、父さんとハルを愛している。そのために俺は生きたし、今もその思いを抱いている。それは、母さんが死んでからだった。俺たちは二人とも、病室に横たわって起きない母さんの死を見届けた。涙は遅れてやってきた。それはちょうど、父さんがハルを連れて帰ってきた時だった。

 あれは、雪が降る日だった。病院の勤めから帰ってきた父さんは、荒く白い息を巻いていた。その手には、分厚い毛布にくるまれた小さな赤ん坊を抱えていた。

「おい、アキ。ハルカ……母さんが帰ってきた」

朝、軒先に置いてあったらしい。そう言って見せてくれた赤ん坊の顔は、確かに母さんの面影が見えた。俺は泣きじゃくった。すると父さんも、俺と同じくらい泣いて、そして笑いあったんだ。

 その赤ん坊には、母さんの名を取って「ハル」と名付けた。俺の名前と並べると、本当の兄弟みたいでうれしかった。俺たちは、ハルに救われたのだ。

ハルは、母さんによく似て病弱だった。俺は、俺を産んで死んでしまった母さんに、ひどく後悔があった。だから、俺はハルを守ろうと、強く決心した。

 ……だが、現実は厳しかった。

 俺は医者になるため、自分の身を削いで勉強をしていた。しかしそうなると、家で寝ているハルの面倒をみてやれなかった。結果的に、俺はハルに寂しい思いをさせてしまっていた。ジレンマだった。未来のハルを救うか、今のハルを付きっ切りでみるか。俺はそこまで、要領の良い人間ではなかったのだ。

 父さんは、俺の苦悩を見抜いていた。ある日唐突に、「医者をやめる」と言って、家にこもるようになった。そこから、父さんはハルの看病を一人でするようになった。俺の手がかからないよう、俺にはほとんど手伝いをやらせなかった。

 俺は、家に居づらくなった。ハルのために何もしてやれないのがひどく悲しく思えた。それと同時に、父さんとハルが笑い合う姿が……俺には羨ましくて、どうしても直視できなかった。

 嫉妬していた。それに、寂しかった。父さんにも、ハルにも。俺はこんなにも、二人のことを愛しているのに。愛が欲しかった。俺はその気持ちを押し殺して、明るく振舞い続けた。その呪縛を抱えたまま、俺は町から離れた。

 大きな街は喧騒に沈んで、人混みは常に、煌びやかな光を求めた。その後ろに差す汚い暗がりには目を向けなかった。仮初の愛、偽物の心。皆仮面を付けて、街角で抱擁を交わす。俺は、冷たく胡乱な光を見過ぎてしまって、眼が濁っていくのに気付かなかった。

 こんな思いをするのはたくさんだと、何度か自暴自棄になった。しかし、思い出す父さんとハルの顔……そして、母さんの形見の写真をもって、俺はなんとか生きていた。

 長い実習期間を経て、俺はようやく町へ帰れるようになった。その報告も兼ねて俺は久しぶりに帰省した。

その日は雪が降っていた。電車が遅延しているようだったから、迎えに来る予定だったハルにその連絡を入れた。だが、実際駅に行ってみると通常通りの運行をしていて、申し訳なさを感じながらも、特段の心配はしなかった。俺は、仄暗い雲から雪が降るのを眺めながら、帰郷への思いを馳せていた。

 駅に着いても、ほとんど降りるものはおらず、駅舎は寂しそうに白く雪をまとっていた。待合所ではやかんが鳴るばかりで、ハルはいなかった。俺はうるさいやかんに水を差してやった。駅には電話も駐在もなく、何も手立てがなかった。まだ着いていないのは確かなようだ。俺はため息をつきながら、コウモリ傘を差して歩き始めた。久しぶりの町の姿はどこかそっけなく感じて、ついつい早歩きになってしまう。真新しい煉瓦の壁や、舗装された石畳、ぽつりぽつりとあったガス灯は、街路に整然と並んでいる。俺はそのガス灯がちょうど灯り始めるくらいに、図書館にたどり着いた。

 扉を開ける。中は冷たく、しんと凍るようた。傘の雪を玄関に落とす。外套は濡れていないようだ。俺はそのまま、二重目の扉を開けた。

「ハル、爺さん、居るか」

俺の声は書架に吸われて反響しなかった。これではわからないな。先へ進む。おそらく閉架室に居るのだろう。……光が隙間から漏れている。俺はドアノブに手をかける。

「おう、アキ。久しぶりだな」

爺さんは、揺り椅子の上で寝ていた。久しく聞いたその声は、あまりにか細なっていた。それに痩せこけている。これでも医者の卵である。呼吸器系に異変がある明らかだった。しかし、それを一番わかっているのは、俺よりも長く医者をやっていた爺さんのはずだった。

「どうしたんだその声。病院へは行ってるのか」

「帰ってきていきなり他人の心配かい。お前らしいな」

爺さんは笑った。しかしその声は頼りなく、俺には違和感しかなかった。すぐにせき込み、苦しそうな表情に変わる。俺は駆け寄って、背中を撫でた。

 俺は、父さんを小さく感じて寂しく思った。髪は短く、ところどころ白くなって、毛量も減っていた。首は細く、静脈が青く浮きだって見える。服もみすぼらしいものを着ていて、ふけが肩に落ちて粉をふいているようだった。

「今日はもう休んだほうがいいよ。苦しそうじゃないか」

爺さんは黙りこくって、浅い呼吸を狭い部屋に響かせている。

「もう少しでハルも帰ってくるはずだよ。……ハルは最近どうなんだい」

俺は父さんの肩に両手を置いて、後ろにゆっくり引いた。揺り椅子にもたれ掛けさせるようにうながす。ぐらりと後ろへ傾いて、古い木の軋む音がした。

「ハルは……もう俺やお前の手がいらないほど強くなった」

俺は手を止める。……強くなった?

「強くなったって、でも俺が面倒をみるよ。だって、父さんだって、もう、こんなになってるじゃないか」

「アキ、ハルは大丈夫だよ。この図書館を任せようと思うんだ。俺もいいよ。もう、長くないみたいだから」

俺は戸惑いを隠せなかった。

「そんなこと言ったって、ダメだよ。独り占めなんかにさせない。次は俺の番だよ。任せてよ。俺、この数年間、血を吐くくらい頑張ったんだよ。今度施術なんか見せてあげるから」

焦燥と困惑が胸を締め付けた。俺は必死に喋り立てた。舌が渇いて痛む。

「ハルもさ、良くなったって言っても、前より少しいいくらいで、またどうせ寝こんでるんだろ。父さんもさ、疲れただろう。こんなになるまで頑張って。大丈夫だから。俺がいるんだから」

「アキ、もう大丈夫だよ」

「俺が何のためにこの町を離れたのか、父さんも知ってるだろ。俺の背中を押してくれて感謝してるんだよ。ハルのために頑張るって決めたから、忙しくて帰ってこれないなんて分かり切ってるのに、正月も、盆も返上して勉強して、誕生日なんかもう忘れちゃってさ。……父さんとハルが駅で見送ってくれた日は覚えてるのに」

「アキ」

「でも、もう終わったんだ。今度卒業するんだよ。春になったら、こっちに帰ってくるんだ。後で言おうと思ったんだけど、いいや。ハルにはもう言ってあるから。ね。だから俺に任せてよ」

「……アキ」

父さんは、振り返って言った。

「お前はもう、自由になっていいんだ」

俺はそこで、心の中の何かが切れた。

「……どういうことだよ。自由ってなんだよ。俺が縛られて生きてきたみたいに言うなよ! 違う、俺は本心から、ハルも、父さんも大事に思っているから医者になったんだ! 金とか名誉とかそんな薄汚れた副産物のために、俺は生きてるんじゃない! 父さんだってそうだったろう。弱かった母さんを守るために医者になったんだろう!

 父さんは良いよ。ハルが居ればさみしくなかったんだろう。ハルもきっとそうさ。父さんのおかげで体調も良くなって、一人暮らしまでやってさ……。じゃあ俺は? 俺も家族だろ? なんで俺だけ嫌な思いをして、その上要らないって言われなきゃいけないんだ!

 俺はさ、父さんに振り向いてほしくて……ハルに頼られたくて……。辛くて寂しくて死んでしまいたくても、眠くて寒くて吐きそうでも、関係ないのに羨ましがられて、努力するだけで嫉妬するような腐った連中と一緒に時を過ごして! どんなに苦しくてもハルと父さんと……母さんを想わない日は無かった! 俺はそのために生きてるんだって自分に言い聞かせて必死に生きてきたんだ! 頼むから、俺の生きる理由を奪わないでくれ……」

 俺は膝から崩れ落ちた。隠し通すつもりだった鬱積は、一体どこに向ければいいのか。俺は一体、何のために生きているのだろう。

 その時、俺の心に黒々とした思案が一つ浮かんだ。その場にすっと立つ。じっと父さんを見つめる。爺さんは、俺を心配そうに見ている。

「父さんがいなくなれば、ハルは俺を頼ってくれるんだろ……」

俺は背後から、父さんの細い喉を見た。皴になった皮膚の上に、様々な血管の色がはしっている。上からのぞくと、肩甲骨には深いくぼみができていて、その骨と皮の間に、全くの筋肉が無くなっているのが分かった。

「苦しくないよ。ちゃんと教わったから……」

 俺は、よく似た栗色の襟足をそっと撫でてから、首に手をかけて、ゆっくり、そっと絞めた。

 優しく、渾身の愛をこめて。

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