第3話
家に着く頃にはすっかり暗くなっていた。俺は帰って来るや否や布団に倒れ込む。体力の限界が訪れている。視界は霞み、瞼が重い。だがしかし、俺に残された時間はわずかである。悠長にしていられないのだ。気怠い身体を何とか鼓舞して、俺は拝借してきた書籍を机に広げた。
民俗、風俗、文化人類……。読み進めていくと、様々な文献で人魚の名は散見された。おとぎ話の一編であったり、土着信仰であったり、遺骨やミイラなどといった胡散臭い資料まである。そのほとんどの文献で、所詮は空想の産物であり、伝承が発生した原因や経緯ばかりが論述、考察されてあった。だがその一つに、興味深い人魚伝説が存在した。俺はじっくりと、その記述を読んだ。
「『人魚伝説——廿楽の白魔』
三・一 ——(前略)——
人魚というのは言わば幻想であり、想像上の動物とされているが——古今東西、数多くの文献からその存在を認められていた——我が国に於いても例外ではなく主に隣国から輸入された書物、特に地理書、歴史書、伝奇の印象が強く——各地方に色濃く残存する中でも、特筆すべきは口承のみが伝わる廿楽地方の人魚像である。文献による根拠の提示がままならないのは非常に悔しいが——考証に値すると判断した。
口承とは即ち口頭伝承であり、主に文字文化の無い地域で歌や、語りによって受け継がれる——一般に見られる人魚伝説を西洋と東洋で分類すると人魚の様相は各地様々であるが、西洋では美女、美声、といった特色を持つの説話が多く目立つ一方、東洋では醜女、または怪物や妖怪の姿であることが多い。そのことから——
——(中略)——
しかし、廿楽地方に伝わる人魚伝説は世界各地に見られる一般的な言説とは異なる。容貌は事細かに語られヒトのそれに近い。美しく、とりわけ特異なのが「白い人魚」であることだ。その人魚はヒトに襲い掛かり喰らうが、実体としての身を食うのではなく、人間の抱える精神的な負の部分を奪うとされている。しかし、これには異を唱える文献もあり——
……これだ。廿楽はこの地の古い名前である。昔、ここらは周りを山に囲まれ孤立した港町であった。道が整備されている今ではその面影すら残ってないが、曲がりくねった長い一本道を通って交流していたらしい。向こうに住む人等は、その道を「つづら道」と呼び、つづら道を通って行く町の意を込めて、「廿楽」と名前がついたのだ。間違いない。人魚は正しかったのだ。
……俺は同時に、永遠に晴れぬ靄が心にかかった。
『……驚いた。私はとんでもない誤診をしてしまったようだ。大変申し訳ない。それが分かってて君は脱走したんだね。……違うのか。ん、ああ、君はアキ君の弟だったか。話はいつも聞いているよ。……そうだね、昨日と今日は一度も来とらんが……それがどうしたんだ』
俺は汗を拭った。思い出したアキの冷徹な目が、俺を見た気がした。
月灯りを頼りに浜へと向かう。近づくにつれ潮の香りが漂う。松の林を抜けると、水面に浮かぶ月は激しく揺れていた。強風である。海はしけて、波打ち際には近づけない。それでも構わず、俺は暗い防波堤の突端に立った。
闇の中に白波が見える。まるで波濤の上に立っているようだった。闇に目を凝らして、仄かな白い光を探す。
にわかに、月が陰る。海はしんと静まり、波が穏やかになる。この兆候は、間違いない。
「おまえが期待している彼女なら、今は眠っていますよ」
声が聞こえた。その直後、ざぶんといって波が立った。そこに現れたのは、黒髪だった。長い髪をしている。
「白髪のやつはどうした」
「わたしじゃご不満ですか」
人魚は笑った。黒い髪を波に泳がせている。
「いいや……聞きたいことがあるのだが、ちょっといいか」
俺は、本で得た知識が正確なものなのかを尋ねた。黒髪は少し驚いた様子だったが、淡々と答え始めた。
「あの白髪は毒を食うのだったな」
「その通りです」
「そして大昔から生き続けている」
「少なくとも、私が生まれる前からは」
あの白髪は不老不死であるらしかった。それを聞きつけた商人たちが、廿楽の道を築いたという。
「俺の毒……呪いは、消え去ったのか」
診断によると、俺の身体に異変は無く、治療の必要はないとのことだった。
「そのようですね」
俺は安堵すると同時に、アキの凶行が真実であるという確証を得た。
「そうか……。なあ、人魚」
黒髪はじっと俺の目を見た。
「俺はどうすればいいのだ。肉親も同然の男に呪いをかけられて、しかもそいつは実の親を殺したかもしれないのだ。俺にはわからない。やつの心も、やつをどう扱うかもだ」
黒髪は、黙ったまま俺を見つめている。
「俺は怖い。人間が怖い。愛すべき人間が、この世にいるのかさえ分からなくなった」
「そうですか」
黒髪は、俺の言葉にあまり関心を持たず、ふいと別の方向を見た。
「しかし、おまえは愛されている。見てごらんなさい」
俺は、黒髪の見る方をちらりと見た。
——そこには、ランプを提げて砂浜を歩くアキの姿があった。
「あれは、おまえの恋人ですか?」
黒髪は、感情を変えることなく、静かに聞いた。
「いいや……あれは俺の……兄だよ」
アキは、探し回るようにして、辺りをうろついている。俺は戦慄した。ここまで追ってきたのか。だとすれば、俺の部屋の書物もあさっているのだろうか。……それはまずい。
「ほう、鉈を持って弟を探しに来るとは。随分熱心なようですね」
黒髪はあきれたように言っている。それとは裏腹に、俺は焦っていた。灯台の後ろに隠れているが、あの様子だと、この防波堤まで来るだろう。俺には、逃げ場がなかった。
俺は一つ、黒髪に取引を提案した。
「黒髪、聞いてくれるか」
「なんでしょう」
「俺の身体、くれてやってもいい。だが、その代わり、俺を守ってほしい」
黒髪は返事をしなかった。しんと静まり返った海に、俺の鼓動が響かないか心配になった。今宵に限って月は明るく、雲はどこかへ吹き飛んでしまっていた。
「ハル。どこにいるんだ」
俺はびくりと跳ねた。アキは、やはり俺を探している。しかしその声は、物憂げな寂しい声であった。親を探す小鹿のような哀愁が漂う。俺は、アキからそんな声が出るとは知らなかった。
「ハル。俺はお前がいないと駄目なんだ。頼むから……帰って来てくれ」
悲痛な叫びが、水平線に霧消する。アキは防波堤に足をかける。ランプと、鉈を持って、こちらへふらふらと歩いてくる。俺はもう、ほとんど諦めていた。俺は病でも自然にでもなく、兄に……アキに殺されてしまう。漠然として言いようのない悲しみが襲う。考えているばかりで、結局何もできなかったな。爺さん、俺は不甲斐ない息子だ。爺さんの最期の願いも、叶えてあげられそうにないみたいだ。
その時、にわかに水面が光って、みるみるうちに明るくなった。その中に、青白くたなびく光跡が見えた。俺は昨日の鮮やかな記憶を目の前の景色と重ね合わせて、確信した。
「白髪だ」
細い指、透き通るような肌。身の丈ほどある白髪が、ゆったりと揺れる。波のまにまに俺を見た。白髪は笑う。俺も、微笑みを返した。
「ハル」
俺は急に近くなったアキの声に驚き、振り返る。そこには夜光虫の輝きに照らされた、俺を見下ろすアキがいた。表情は半面しか見えない。だが、その悲愴な顔立ちは、嫌でも分かった。
「ハル、危ないから、帰ろう」
俺は——
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