第2話

 起きる頃には当然昼を過ぎていて、何もやる気が起きなかった。抜け殻のようにじっと布団にこもっているばかりである。昨日の出来事は夢だったのだろうか。否、俺の腹部にはべっとりと黒い染みが付いていた。その汚れが、幻ではなく現実である何よりの証拠だった。

 俺は……結局生きてここにいる。もし、人魚に出会っていなければ、とっくに死んでいただろう。誰にも別れを告げず、誰にも見つけられず、海の藻屑となっていたのだろう。

 俺の命は白髪の人魚に救われた。目を閉じれば、瞼の裏に白髪が微笑んでいる。儚く、触れば崩れ去ってしまう。あの人魚は、自然美そのものであった。自然によって殺されないのであれば、俺の死ぬ理由は無かった。

だが、白髪は一体、俺の身体に何をしたのだろうか。

『毒を食った』

あの黒髪は確かにそう言った。そして、俺から溢れ出した汚泥を呪いとも言った。

『身内に呪いをかけるなど……』

 俺がいきなり倒れて余命まで宣告されたのは、その呪いのせいなのだろうか。しかし、俺の不調は今に始まったわけではない。春のあたりから、もっと言えば、生まれつき病弱である。それでも最近は仕事もこなすようになっていたし、急なめまいを感じるなんてことはなかった。卒倒を起こすようになったのは、ここ数カ月の間である。季節の変わり目だからと思っていたが、もう夏に入ろうかという時期になってしまった。

「おい、ハルよ。いるか」

 考えていたところにいきなり人の声がして、俺はびくりと身体を震わせた。心臓が飛び跳ねるかと思った。噂をすれば影をさすとは本当らしい。家へ訪ねてきたのは、俺の唯一の身内であるアキだった。

俺はその場で「おう」と声を出した。

「上がるぞ」

鍵をかける習慣は無い。開いているはずだ。がたがたと音が鳴る。建付けの悪い扉が開いて、閉じ切った部屋の中にふわりと風が舞い込んだ。木の床が軋んで響く。長押に手をかけて、くぐるように顔を出したアキは、その脇に小さな紙袋を抱えていた。

「よう。なんだお前、倒れたらしいじゃないか」

「……なんてことない。大事を取って寝ているだけだ」

栗色の巻き毛に異国然とした顔立ち。おまけに図体もでかい。俺とは似ても似つかないこのアキは、俺の兄であった。

「それで。お前、病院を抜け出したって聞いたが……どういうつもりなんだ?」

アキは、怒った口調だった。それもそうだろう。俺は自分が情けなくなって、俯いた。

「嫌気がさして、海を見に行ったんだ」

ぼそぼそと答えた。俺は、アキの顔を正視できなかった。

「……そうか」

俺は肩透かしを食らった。いくら穏便なアキだとしても、一喝されると身構えていた。そういう表情でもあった。アキは医療従事者の人間である。事の重大さは、俺より数段理解しているだろう。

「体調はどうなんだ」

「大丈夫だ。今からでも病院の方に戻ろうかと考えていたのだ。……その、すまなかった」

俺は伏し目で言った。するとアキは破顔して、高笑いを始めた。腹を抱えている。俺がしおらしくしているのが面白いのだろうか。 

「まあ、やんちゃもほどほどにな。俺は、お前が生きていてくれるんならそれでいいんだ」

アキは遠い目をした。何を考えているのか、俺にはわからなかった。

 アキからは、俺の嫌いな臭いがした。つんと鼻をつくきつい臭い。病室の、異を排した歪な白さが目に浮かぶ。アキはそれに準ずる、潔癖の性格をしている。……白衣がよく似合っていると言ったら、アキは喜ぶだろうか。

「それと、病院ではなく自宅で療法せよとのお達しが出た。お前、今戻ったら、先生に何されるかわかったもんじゃないぞ」

 そう言って、また笑った。

 小脇に挟んでいたのは、俺への処方薬だった。それを俺に渡すと、じゃあ、と言ってすぐ帰っていった。曰く、また脱走されても敵わないからと、ハルが薬を届ける役を買って出たらしい。俺はもう一度深く謝って、ありがとう、と言った。アキは気前よく、なあに兄の務めだよと言って、去っていった。

 アキが去った後の部屋は空白みたいに静かだった。乱雑に物が置かれている俺の部屋に、穏やかな陽が窓から差しこんでいる。久しぶりの来客に、埃が舞っている。俺は壁に背を預け、しばらく考え込んだ。

「身内に気を付けろ、か」

 俺は余計、分からなくなった。本当は、アキのことを心の底から信じたい。しかし、俺の心にはある出来事が引っかかって、どうしてもそれが拭えないままでいた。

 ——半年前に、爺さんが死んだ。俺の育ての親だ。アキは爺さんの実の息子で、俺とアキは義兄弟の関係だった。俺は、誰が親ともつかない、捨て子だったのだ。その上生まれつきの虚弱体質で、床に伏せることが多く、学校にも満足に行けない日々を送っていた。そんな俺に愛想を尽かさず、爺さんは甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。他の子と劣らないよう、勉強もみてくれた。本当の家族だった。血の繋がりがないからと言って、寂しさを感じる事はなかった。

 だからこそ、俺はあまりに唐突な爺さんの死から、未だ心の整理がついていなかった。気分が沈み込む日が多くなり、それに伴って、めまいのような卒倒が増えた。病は気からと言うが、本当にその通りだと思った。釈然としない憂鬱が、いつも俺の心に巣食っていた。するとついに昨日、余命を宣告されたのだった。

 ——爺さんの死を俺たちは目の当たりにした。

 その日は……そうだ、雪が降る日だった。俺はニット帽を目深に被って、うっすらと積もる街道を歩いていた。久しぶりにアキがこちらに帰って来るから、駅まで迎えに行っていたのだ。アキは数か月後に卒業が決まっており、都会の大きな学校の土産話をうんと聞こうと楽しみにしていた。灰色の雲が空にうねっている。ガス燈が仄かに灯りだす。俺は、駅のストーブに手をあてる。やかんの水は、まだぬるかった。いくら待っても、アキの姿は見当たらなかった。

 確かに到着の連絡を受けたはずなのだが。俺は不思議に思いながらも、何もする手立てがなく、とぼとぼと帰った。俺はその足で、爺さんの居る図書館を尋ねた。もし入れ違いが生じたのならば、必ずそこで合流できると思ったからである。結果的に、俺たち三人は図書館で再会を果たした。しかし、それはあまりに歪な再会だった。

軒先で雪を払い落し、扉を開ける。古本の、微かな甘い匂いが漂う。中は思ったより暖かかった。

「爺さん、アキ、いるか」

 コートを脱ぐ。館内に湿気は厳禁だった。来客用の衣紋掛けに外套を掛ける。俺はふと足元を見た。そこに、靴跡があるのに気付いた。俺より先に客があったらしい。おそらくアキだと思って、先に来るならそう言ってくれればいいのに……と小言を呟きながら、二重目の戸を開けた。

 狭い館内に書架がずらりと並んでいる。いつ見ても圧倒される。床には、紐で結ばれただけの整理されてない書籍が所狭しと積んであった。街道に立っているガス燈の灯りが、ぼんやりと館内を照らす。俺は、足跡を追って歩き始めた。

館内には、俺の靴音だけが響いていた。薄暗く、足元がおぼつかない。この図書館は爺さんが管理していて、俺はその手伝いをしていた。乱雑に置かれた書籍を片付けるのは、俺の仕事だった。

 嫌に静かだな、と俺は思った。足跡は閉架閲覧室まで辿っていた。ここは、爺さんが事務所としても使っている部屋だった。俺が歩みを止めると、辺りは静寂に包まれた。扉のわずかな隙間から、光が漏れている。俺はドアノブに手をかけて、一気に開いた。

 光が目に飛び込んでくる。俺は目を閉じて、視界が明るさに順応するのを一瞬待った。光に慣れて、瞳孔が元に戻る。目の前に広がっていた光景は——

外套を羽織ったまま立ち尽くしたアキと、地面に倒れて動かない爺さんだった。

 俺は咄嗟の言葉を失った。アキはこちらに気付いて、振り向いた。

「倒れていたのだ。俺は救急を呼んでくる。ハル、爺さんを頼む」

アキは表情一つ変えず、そう言い残して、俺の横をするりと抜けていった。俺は爺さんに駆け寄った。何度も何度も、繰り返し名前を呼ぶ。応答はない。頬を叩いてみても、生体反応は皆無であった。だが、まだ温もりはある。俺は手を握る。

「爺さん、しっかりしろ!」

 もう片方の手で肩を掴んで、揺さぶりながら声をかける。俺はまだ、あなたに何も返せていないのに。後悔が胸を満たす。

どうやっても反応がない爺さんを前に、俺は半ば諦めて、手を止めた。絶望と脱力。俺は爺さんを抱きかかえるようにうなだれる。

「起きてくれよ、爺さん……」

涙が滴り落ちて、床に落ちる。何も伝えられずに終わってしまうのか。誰にも愛されず死んでいく命だった俺を拾ってくれて、何も出来なかった俺を守ってくれて、家族同然に、ここまで育ててくれたじゃないか。

「は、る。……アキは、いったか」

微かに声が耳元でした。俺は生気を取り戻したように起き上がった。

「爺さん! 俺の声が分かるか!」

爺さんが少し微笑んだように見えた。瞼は閉じたままだが、俺の方に首を傾けた。擦れた声で、言葉を続けた。

「ハル……おまえは、俺の、本当の、息子だったよ。

 そして、おまえたちは、等しく、おれの子供だった。

だが、一人一人の、人間でもあるんだよ……」

うん、うん、と、俺は涙を堪えて頷く。

「おれたちは少し、たがいを想いすぎたのかもしれない。アキにも、それをおしえてやってくれ」

 爺さんは、薄く目を開いて、俺を見つめた。冷たくなりゆく手を伸ばして、俺の頬に触れた。そして……腕がぱたりと床に落ちて、爺さんは絶えた。

 ——いくらか時間が経った後、アキと一緒に救急が駆け込んできた。俺は爺さんを抱きかかえたまま、泣いていたと思う。その後のことは、よく覚えていない。

 俺は、あの時のアキの表情が忘れられなかった。倒れた爺さんを見つめる瞳孔の開いた目が怖かった。アキと爺さんの間に交わされた最後の会話を俺は考えることもできなかった。

 俺は覚えている。閉架室の前に立った時、部屋からは何も物音がしなかった。それをどう理由付けるのだ。俺は、アキが爺さんを見殺しにしたんだという疑心を、心の奥底で、静かに飼っていた。

 窓を開けると光が差し込んできた。外は良い散歩日和である。俺はまだ悩んでいた。久しぶりに出歩いてみるのもいい。昨日倒れたのを考えると、安静にしなければならないのかもしれない。だが、俺に残された時間は、限り少ないのだ。

 アキに手渡された処方薬を取り出す。小さい錠剤が二錠。粉薬と、くすんだ色の液剤もある。俺はそれを眺めるばかりで、飲む気にはならなかった。

 人魚の言うことが、本当なのかどうかをずっと考えていた。アキを心から信頼はしていないが、やつは医者である。その勉強を終えてこちらに戻ってきたのである。

「……どちらも試してみるか」

 やはり、行かなければならない。外は朗らかな陽気に包まれていた。俺は、むくりと立ち上がり、外に出かける準備を始めた。

 取り出した大きなキーリングにいくつもの鍵が連なっている。大小の順列で並んで、いささか楽器のようにも見える。取り出すと擦れ合って、不規則で心地よい音を奏でた。図書館の重厚な扉が開く。あの日と全く同じ、柔らかい本の匂いがする。

 図書館は、爺さんが俺に残した形見でもあった。古今東西の書籍の蒐集家でもあった爺さんは、数多くの本を有していた。在宅の仕事を探していた際に、役場からの誘いがあったらしい。生前から手伝いをしていた俺が、爺さんの後釜として引き継ぐ形になったのだ。

 しかし、この場所には因縁があるから……どうしても来る気にはならなかった。

「閉館」の看板はそのままに、目当ての本だけを回収する。爺さんは元々講師を務めていた。教職なだけあって図書館には学術的な文献が多く、利用する年齢層も比較的高い傾向にあった。館に用があるときは、俺の家へ訪ねてきた。申し訳ないと思っていたが、小さな村である。噂を知ってか、俺につらくあたる人間は一人もいなかった。

 俺がここに戻ってくることはあるのだろうか。名残惜しく扉を撫でる。縦に筋の入った暗い色の木だ。……先の話はやめよう。次なる目的地は病院であった。

 俺の感覚だけで言うとまだ昼ほどであったが、その実、陽は水平線に沈みかけていた。家の明かりがぽつりぽつりと灯りだす。夕餉の匂いも漂ってくる。幸せそうな笑い声が街角に響く。俺は帽子を深くかぶって、歩みを早めた。

 病院に入るや否や、すぐに見つかって俺は子供のように叱られた。小っ恥ずかしい思いであったが、平謝りして、俺はここに戻ってきた理由を述べた。看護師はおかしなものを見る目をした。だが、特に反対はせず、すんなりと意見を通してくれた。

「俺の身体をもう一度診断してくれませんか」

 しかめ面の医者に頭を下げて頼んだ。俺は……人魚の言う「毒を喰らう」というのが真実なのかどうかを確かめたかったのだ。もし、真実であるのならば……俺は、その時の覚悟を腹に決めた。

「それと……アキについてなんですが……」

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