人魚

依田鼓

第1話


 一


 波打ち際を歩く。月はない。星も見えない。俺の眼の前に広がるのは、空と海との境界線が消えて一つになった闇と、おどろおどろしい松の林の影のみ。耳のすぐそばに松風が響く。重ねるように、さざ波が小石を引きずってからからと鳴った。

 夜の隙間を縫って歩く。潮風が頬の傷に染みてひりひりと痛む。ひとつ、足元を逃げ回るやどかりを捕らえて、これを海へと放り投げる。闇の中に着水音が溶けて消える。手当たり次第に、角が丸くなったガラス片や、二枚貝の片割れなどを次々投げ飛ばして、微かな音を聞く。少し続けるだけで呼吸が乱れた。こんなつまらない憂さ晴らしでさえも満足にできない自分の身体に、とことん嫌気がさした。

 夕刻のことだ。突然吐き気がして、たまらず立ち上がった途端、眠るように意識を失った。気付いた時には、白い病室の天井が見えて、ここ最近でもそうとうひどいと悟った。つんと鼻をつくきつい香りがする。俺はその臭いが大嫌いだった。無理に起き上がろうとすると、全身の節々が痛んで、やはりただ事ではないな、と思った。俺の目覚めに気付いた看護師は、すぐさま病室の外へ飛び出していった。神妙な面持ちで入ってきた医者に、俺はわずかばかりの余命を告げられたのだった。

 安静にしていれば、という医者の通告は、もはや戯言にしか聞こえなかった。今までそうやって生きてきたのだ。細い命を無理くりに繋いできたのだ。俺の面倒を見てくれた人たちのために、死ぬ思いで生きているのだ。自分の心がふつふつと苛立っていくのが分かった。やけになって、俺はそのまま病院を飛び出した。せめて美しいものを見て死にたい。花だとか、木漏れ日だとか、そういう景色を見て、風に攫われる灰のように、散る桜のように……。もし、海に身を投げれば、俺の肉は渡り鳥の浮島となって、血は大洋を巡って、骨は世界中の砂浜に流れ着くであろう。それは何と素晴らしいことだろうと、心の底から思った。

 行き着いた先は誰も知らぬ浜辺であった。穏やかな場所であった。小さい砂浜で、右に伸びる防波堤の突端に古い灯台が見える。誰もつけにはこないから暗いままである。だが、闇夜に紛れるにはかえって都合がよかった。

寂しい浜を歩いているだけですぐに疲れてしまい、砂浜に寝転がって空を見ていた。何も映らない真っ黒な夜空だ。ここで寝れば、満ち潮が俺を攫って勝手に死ぬだろうと、そう思っていた。

「……」

 その時、微かに俺の名を呼ぶ声が聞こえた。細い女の声だ。それも海の方からである。空耳だろうと思った。耳を澄ます。……潮騒。渚を波が駆ける音。響く松風。 ……しかし確かにその合間、俺の名を呼ぶ声がはっきりと聞こえるのだ。ここからは見えない灯台の裏辺りであろう。ちょうどそこは、まだ見たことが無かった。今は自棄の旅である。怖いものなど何もなかった。俺は好奇心から、海の怪異に近づいてみることにした。

 フナムシが逃げ隠れる音がする。波は砂浜の方とは打って変わってかなり激しい。暗闇の中でも白波が見えるほどだ。灯台は思ったよりも大きかった。見上げてもなお高い。俺は灯台の裏に回り込み、そこへ腰を掛ける。飛沫が草履を濡らす。潮の濃い香りが、鼻の奥をぐわりと通り抜けて、俺は思わず咳こんだ。

「……」

 やはり聞こえる。どれだけ近づいても、か細い声のままであるのが何より不気味だった。

 にわかに、辺りが静寂に包まれた。波が穏やかになって、風が凪いで止まった。フナムシの跫音も、松風も、ぴたりと止まる。まるで時が止まったようだ。水面は見えず、覗きこむと、深く黒い底につながっているようだった。

すると海面が薄く光り始めるではないか。俺はまじまじと明るくなる海を眺めた。そしてその中に、青白く輝く光の軌跡が描かれていた。それを目で追う。灯台を周るようにしている。波紋には夜光虫が群がって、仄暗い曳き波を立てている。明るくなったのは、その夜光虫のせいであるようだ。

 光の軌跡は、段々と浮かび上がってくる。それと同時に、人の姿を成していった。だが、下半身が人間のそれではなく、代わりに大きなヒレがついていたのだ。

「人魚だ」

 俺は気付いた。光っているのではなく、人魚の体が透き通るほどに白い。水の中をたなびく髪も、腰より下に生える鱗も、細長く伸びる指の先まで、彼女は純白であった。それが夜光虫の灯を体に集めて、白く光っているように見えたのだ。

 見惚れていると、人魚と目が合った。視線に気が付いた人魚は、甲高い声で鳴いた。きぃ、きぃと騒いで水を掻いている。嘲るように、自分が立てたさざ波の隙間から、こちらを見ている。その眼は赤黒く、怪しげな光を放っていた。

 人魚は、しばらくすると仰向けになって目を閉じた。その顔は微笑んでいるようにも見える優しい顔だった。そしてあまり動かなくなった。海面が掻き乱れなくなり、次第に光も落ち着いた。人魚の周囲だけがぼうっと灯り、闇に浮かんでいるようだった。

 急に心が安らいだ。すると今日一日の疲れがどっと出てきて、眠るようにして人魚を見つめた。そうしていると段々意識が薄らいできて、まるで海上をさまよう鬼火になったような気分になった。

 時々目が合うと、くすくすと笑い合った。俺が笑っているのか、それとも人魚が笑っているのか。どちらともつかない笑い声が、夜の海に小さく響いた。俺たちは心地よいまどろみの中にいた。

 岩と岩の隙間から水のはねる音が聞こえる。目を開けると、いきなり人魚の顔があった。思わず後ろに手をついてのけぞる。しかし立ち上がれないほど近くに迫って来ていて、それ以上の距離が取れなかった。辺りには霧が立ち込めている。

寝ぼける暇もなく、俺は人魚の顔をはっきり見た。こいつは俺をとって食うつもりなのか。至近距離で見つめ合う。人魚は恐ろしく整った顔立ちをしており、やはり透き通るような白い肌をしていた。

 大口を開ける。不均等に尖った歯牙が見えた。やはりこの人魚は、人間とは違う異形なのだ。変異や怪物、あるいは妖怪の類。忘れていたのではない。ただ、見惚れていたのだ。

 ここで死ぬのも悪くないと思った。白髪の人魚の美しさは、ただの美男美女を見たときの感動とは違った。私が求めていた、自然的な美である。白い肌と赤い目を持つ人魚。それは野に咲く赤いカンナや、深い山に佇む稲荷の鳥居のように思えた。そういったものに殺されるのであれば、それは単なる不慮の事故である。呪うに呪いきれないこの虚弱な体が、病に蝕まれて消えるより、幾倍もいいと思えた。

 いよいよ、俺は目を閉じた。意を決した。そもそも生きて帰るつもりは無かった。潮に溺れるつもりだった。一思いに、俺の心臓を喰らってくれ。

 ……しかし、何も起こらない。俺は目を開けた。

 眼の前には、変わらず白髪の人魚がいた。肉を食む獣のように、俺の内臓をめがけて牙を突き立てている。おかしなことに、痛みや出血はない。服も濡れていない。しかし人魚は、間違いなく俺の何かを食らっているようだった。

 視線を感じてふと周囲を見渡すと、何やらこちらを覗く影がある。海面から黒い頭を出している。おそらく、取り巻きの人魚であろう。直感的にそう感じた。辺りを包んでいた霧が、闇を白く塗りつぶすほどに濃くなって、はっきりと姿を捉えることはできなかった。

「目をつむっていなさい」

 声が聞こえた。空気を震わせる声ではない。脳内へ直に響く声だった。白髪の人魚は依然俺の身体を一心に食らっている。こいつが発する余裕はなさそうだ。おそらく影の中のいずれかが語り掛けてきたのだろう。影はどれも、怨嗟の視線を俺に送っていた。おれは目を瞑る代わりに、暗い霧の向こう側がだんだんとぼやけていくのを薄目で見ていた。

 どくん、と大きな動悸がした。血が唐突に勢いよく巡る。瞳孔が開くのがわかる。体は熱を帯びて呼吸が浅くなった。されどそれ以上の変化はなく、すぐに収まった。代わりに人魚が俯いて動かなくなった。

「……がはっ」

 突然であった。人魚が嘔吐したのだ。黒い汚泥を細い喉元から吐き出している。海へ流れ出すとたちまち分散して、水面に浮遊した。それにも関わらず、人魚は俺の身体に歯を立て続けた。注視すると、口内はその黒い液体で満たされていて、歯の隙間からどろどろと零れ落ちている。吐いて空っぽになっても、俺の身体を食むとまた増える。それを繰り返す人魚の表情は今にも泣きだしそうで、苦しみに顔を歪ませていた。

 彼女に触れることが出来なかった。背中をさすってやろうと手を伸ばしたが、彼女の体温はあまりにも冷たいのだ。雪のように白い肌を俺の手で赤く汚すことはあり得なかった。俺は右手をそっとおろした。

 「行為」が終わる。俺があまりに情けない顔をしていたのだろう。人魚の方から笑いかけてきた。拙い笑顔だった。無垢で愛らしく、どこか寂しい表情をしていた。

白髪の人魚はそっと転がり落ちるようにして海へ潜った。背後にいた人魚達はそれを追うようにしていなくなり、小さな魚影が、ゆらゆら海の奥の方で揺れているのを呆然と眺めていた。

 黒く染まった水面から離れたところに、一匹だけ残っていた。長い黒髪を水中に漂わせている。何も言わず、じっとこちらを見つめている。俺を訝しむような深い眼差しであった。俺は目線を逸らした。白髪に悪いことをしたように思えたからだ。

「随分と大きな患いを抱えているのですね。」

 おそらく先ほど俺に語り掛けていたのはあの人魚だったのだろう。鋭い表情とは裏腹に、その言葉は優しいものだった。

「なぜそれが分かるのだ」

「普通はこんなに汚い色をしていないのです」

 人魚は、白髪のやつが吐いた油のような水を見た。

「何をしたのだ」

「彼女は毒を食うのです」

「人魚は毒を食うのか」

「あの子は特別なのです」

空が白んでくる。朝日が霧を通して揺れている。

「……なぜあいつだけあんなに白いのだ」

俺は気になっていた。最後に見た海へもぐる魚群は、あいつを除いて平凡な色をしていた。奴の白さだけが異様に際立って、最後まで白い泡のように見えた。

「〝特別〟だ、と言っただろう」

語気が強まる。声にならない会話ではあるが、勢いよく脳内に響いた。

「それより、おまえは自分の心配をした方が良いのではないですか」

水面に浮かぶ人魚は伏し目で言った。

「……身内に呪いをかけるなど……我々には到底理解できない」

最後はほとんど独り言のような口調で呟いた。パシャリと音を立てて、人魚は海へ潜った。

 空には夜明け前の紫色の雲が浮かんでいる。ぼんやりとそれを眺めていると、海面で音がし始めた。見れば、浮かんでいる俺の毒が沸騰しているではないか。蒸気となって、朝もやに紛れていく。それが朝日に照らされてしまう前に、俺は家路についた。

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