なんか姉ちゃんが、無茶を言う。

「はー、可愛いわー」


夜、自室からリビングに降りていくと、酔っ払った母さんが昔のケータイ電話をいじりながら甘い声をあげていた。

「ねえねえ、見てよ、これ。可愛いでしょー。二人ともちっちゃいわー。ほらほらほら」

近いなあ、もう。

母さんがぐいぐいと押し出してきたケータイの 画面には、小学生時代の僕と姉ちゃんが並んで写っていた。


「昔の写真?」

「そうそう。うちの田舎でとったヤツよ、懐かしいわー。お姉ちゃんはこの頃から美人よねー」

答えにくいこと聞かないでくれよ。

「あんたはこの頃からお姉ちゃんにベッタリだったのねぇ」

この頃からってなんだ。ベッタリの時期なんて皆無だよ。

「何かにつけて、お姉ちゃんお姉ちゃん言ってたのよ、あんた」

だから、言ってないって。

「そう言えば、いつからあの子のこと『姉ちゃん』って呼ぶようになったの?ちっちゃい頃はずっと『お』を付けて『お姉ちゃん』だったでしょ?」

「……あー、うん」

そうか。母さんは知らないのか、あの話を。


確かに僕は小さい頃、姉ちゃんのことを『お姉ちゃん』と呼んでいた。

それが変わったのは、思春期を経て姉弟の意識が微妙に変化し、回りの環境に流されるように、徐々に徐々に、いつの間にか変わっていったとかいう類いものでは全くなく、明確に小学生の四年生の春に変わったのだ。

他ならぬ、姉ちゃん自身に変えろと言われたのだ。


あの時のことは今でもよく覚えている。

何かの漫画を読み終えた姉ちゃんは、本を閉じた瞬間に宣言した。

「今日からわたしのことは、お兄ちゃんと呼べ」

と。

訳がわからす理由を聞くと、

「守護霊が囁くから」

という謎の言葉が返ってきて、さらに僕の混乱は増した。

中二病。当時の僕がその言葉を知っていたら、すんなりと受け入れられた発言かもしれないが小学生の僕はただただ混乱するしかなかった。


何はともあれ、その日から僕は物心ついて以来続けていた『お姉ちゃん』呼びの変更を余儀なくされた。

もちろん、生半可なことじゃない。

全然口に馴染まないし、とっさの時には『お姉ちゃん』が口をついて出てしまう。

それでも、姉ちゃんの厳しい指導のもと、


『お姉ちゃん』

『おねちゃ』

『おんちゃん』

『お兄ちゃん』


という具合に、段階的にシフトしながら意識に根付かせていき、一年の月日を費やして寝言ですら『お兄ちゃん』と呼べるまでに定着させることに成功した。


そして、その夏ことである。

僕らは家族四人で母方の実家に泊まりにいった。毎年お盆の恒例行事だ。

よく来たなと迎えてくれたじいちゃんの前で、僕は元気よく

『お兄ちゃんもいるよ!』

と、姉ちゃんを指差した。

戸惑うじいちゃんに、姉ちゃんは守護霊が囁くから男になったんだよと元気よく説明すると、じいちゃんは大笑いし、姉ちゃんは大赤面していた。


その日の夜、慣れない布団に並んで寝転びながら姉ちゃんは、

「やっぱり、お姉ちゃんに戻せ」

と、無慈悲な宣言を下し、僕は同じ手順と月日を費やして、『お姉ちゃん』への折り返しを余儀なくされた。


そんな不毛な『お兄ちゃん』と『お姉ちゃん』の往復の合間に、『お』という敬称は駆け落ちて、今に至るまで回復していない……。


「ねえ、なんで? なんで『姉ちゃん』に変えたの?」

酔っ払った母さんはしつこくそう尋ねるが、

「別に……なんとなくだけど」

僕は曖昧に言葉を濁した。


だって、姉ちゃんがすぐそこに座っているから。


いつものようにソファに腰掛け、なんとも言えない表情で僕の方を見てるから。

早目に訪れた姉ちゃんの中二病に巻き込まれたせいだとは、とても言えない。


「ねえ、なんで? なんで止めたの『お姉ちゃん』って?」


母さんはしついし、姉ちゃんはやっぱり、昔から変だと思う。










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