第2話 桜子の恋
何で中学校の教師になったんだろう?
秋田葉太は職員室の自分の机に向かい、もうとっくに忘れてしまった、永久にも解けぬ謎に想いを馳せる。
期末テストが終わって夏休みまでの約二週間、平常授業をしながらテストの採点をやって、放課後は通知表まで作って、それで残業代は無し。
日本のブラック企業の代表格が義務教育の教員だ。
だけど、今はそれが有難い。
とにかく机の上だけに意識を集中、学年主任とだけは目を合わせない!
そのはずだったのに……。
「秋田先生っ」
扉から声を掛けられた。
この時期の職員室はテストに通知表と個人情報ばかりで、終業式の日まで生徒の入室は禁止。必然的に扉の前に立ち、目当ての教員を呼び出すことになるのだが、よりにもよって……。
ぱっと振り向けば、春川桜子が日直日誌を手に立っている。日直は日替わりで二人いるんだから、純平、お前が来いっ!
心のなかで毒づく言葉も終わらぬうちに、一瞬で立ち上がって扉に向かう。
その途中、学年主任に凄い目で睨まれた。
「あの……これから進路指導をしようかなぁ、なんて。ハッハハハ……」
口からのデマかせだったのだが、足早に学年主任の横を通り過ぎようとしたら、
「それなら、わたしも同席しましょう」
凍りついて立ち止まった。
やっぱり嘘はよくないよな、ウンッ!
おまけにだ、ぷっと膨れた桜子が、
「わたし、今日は早く帰らないとっ」
それなら今すぐバイバイしたかったが、学年主任の睨む目に、一応は教師然とした顔で歩み寄る。
「何だ、塾か? それなら──」
「──わたし、塾には行ったことありません」
「だったら、ちょっとくらいは……?」
「今日は忙しいんです。昨日までテストでお手伝い出来なかったから、お掃除して、お買い物に行って、ご飯のお手伝いして──」
もう埒が開かないと思ったのだろう。桜子の言葉も終わらぬうちに、学年主任に役立たず!と強引に押し退けられた。
「そのくらい、後でやりなさい」
学年主任の厳めしい顔を、桜子は平然と見返した。
「今日は、お父さんが早く帰ってきますから」
「お前のためだろっ! お父さんだってきっと──」
「──わたしのためなら、生徒の希望を尊重してくださいっ」
そう遮って、プイッと背を向けた。
学年主任も悪い先生ではない。ただ自分の教育道に熱心で、融通が効かないだけだ。この時も固定観念に凝り固まった、熱いハートがメラメラと燃え上がったのだろう。
桜子の肩に手を起き、無理やり振り向かせた。
「何で、そう強情を張るんだ!」
その怒鳴り声に職員室は一瞬で静まり、たまたま廊下にいた無関係の生徒たちも動きを止め、扉の二人を注視した。
そのなか、桜子がキッと睨み返して言い放った。
「好きな人が居るから、高校には行きませんっ!」
* * * *
こんな時間になっても、帰り道はまだ明るかった。もうすぐそこに梅雨明けがあって、そのさきには暑い夏が待っているのだろう。
ぶらりとコンビニに寄って、レジ袋を提げて駅前の公園に入る。
青々とした桜の葉がさやさやと風にそよぎ、深い陰影を刻んだ緑の屋根を波立たせる。どこかで気の早い蝉がジージーと鳴き声を上げた。
昼間の陽射しを避けて涼を求めた人たちはすでに去り、愛を囁くカップルたちにはまだ早い時間、公園には人影もない。向こう側の出口に近い外灯の下のベンチ、そこにも誰も居なかった。
当たり前か……。
ベンチの端にどかっと座り、足を投げ出す。
この二ヶ月、早く帰れる日にはここに寄って桜子と話すようになっていた。
学校での優等生は、放課後の問題児だ。
桜子の希望進路の秘密を知ろうとして、どれだけプライベートを犠牲にしたのだろう。
美樹の名前から、高校からの同級生だったこと。農家の一人娘で、今は地元の農協に勤めていること。三年の遠距離恋愛の果て、別れを告げられたことまで、全部バレた。
けれど、自分の事となると妙に口が重い。その事を指摘してみれば、
「大人は嘘吐きますから」
「そりゃ誰だって、多かれ少なかれ──」
「本当に大切な事で嘘を吐くんです。お父さんだって──!」
そう言い掛けて、口をつぐんでプイッと目を反らした。
その割には、そのお父さんとの仲はすごく良さそうに見えた。姿がチラリとも見えればすっ飛んで行くし、並んで帰ってゆく後ろ姿なんて、娘を持つ父親なら誰もが夢に見そうな様子で、自分にも娘が出来たらとつい夢想してしまうほどだ。
家庭も良好、学力にも問題がないともなれば、あの学年主任に言ったのは本当のことなのか? だけど好きな相手なんか、おくびにも出したことがない。
それなら誰だろう……もしかして?
そんなことを考えて、青葉の向こうの暮れ行く空が群青色に染まるのを、ただぼーと眺めていたら、そばでジャリっと砂を踏む音がした。
ふと目を向ければ、足を止めた桜子の顔が強張った。
へらっと笑い、気まずさをやり過ごして、
「遅かったなっ」
なんて彼氏みたいに。
にこっと笑顔で「ごめ~ん」なんてノッてくれたら訊きやすかったのだが……。
「夏はいつまでも明るいから、スーパーのタイムセールが遅くなるんです」
平坦な声で返された。
あちゃ……と顔をしかめる。
元をただせば、俺の嘘が原因だ。こんな時は四の五の言ってる場合じゃない。男だったら黙って──
「ごめんっ!」
頭を下げた。
桜子がムスッとベンチの反対端にストンッと座った。
「ジュースくれたら許してあげます」
すぐさまレジ袋をがさがさ、一本献上。だけど、女王さまはご機嫌ななめだ。
「前もって言ってくれたら、時間ぐらい作ります!」
「今後は仰せのとおりに……」
深々と頭を下げれば、キーンと響くような怒り声だ。
「本当に反省してますか!」
「──してるって! 海より深く反省してます」
両手を上げて降参ポーズをとれば、目を吊り上げて睨まれた。
「美樹さんにも、そうやって誤魔化してたのですか?」
「いや…まぁ…そのな、あいつは怒るのが趣味っていうか……何つうか……」
たじたじと腰を引けば、
「きっと寂しかったからですよ。先生が何も言ってくれないから。
今日だって! ここで会ってるのに、わたしのことで怒られてるなら、もっと前に言ってくれても──」
「──言ったら、気が変わったか?」
途中で遮って問い掛ければ、桜子は押し黙って顔を背けた。
その横顔に、静かに話し掛ける。
「俺はな、遊んでばかりの不出来な学生だったからわかるんだ。
お前、家でもすごい勉強してるだろ。家事のあい間に教科書開いて勉強してる子が、勉強嫌いなわけないよな。
そんな子が進学しないって言い出すのは、よっぽどの理由だろうなって思ったら、言えなかった」
「それでも、話して欲しかったです……」
「だから、ごめんなっ。大事な相談も出来ない、頼りない先生で」
桜子がこちらも見ずに、ぷるぷると首を振った。
「今日の先生はカッコよかったです、俺の生徒だからって猪口先生を止めてくれたとこ。
ドラマの熱血先生みたいでした」
おもわず照れて、へらりと笑う。
「たまにはスイッチが入るみたいだ」
「それなら……もう一度スイッチを入れてください」
桜子が涙に濡れた顔を向け、無理に微笑んだ。
「わたし、お父さんが好きです」
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