葉桜の君に
穂乃華 総持
第1話 葉太の悩み
放課後の職員室は、今日も騒々しかった。
ピタリと閉ざされながらも、窓から忍び込んでくる運動部の生徒たちの声。忙しなく出入りする生徒たちの足音に、キンキンと響いてくる生活指導の熱い声なんていつものこと。
それでも、この一隅だけは特別だった。
秋田葉太は緊張感をゴクリと呑み下す。
中学校の教師になって五年も経つが、学年主任に呼ばれ、二人で話すのは未だに慣れない。
不出来だった学生時代を、つい思い出してしまう。それも、言おうにも説明できない秘密を抱えているともなれば、なおさらだ。
この四月に、初めて三年生の担任になった。
まだふわふわと心踊る、桜の花も散りきらないうちに配った進路調査書。初めての進路指導書は、学年主任と一緒に作成することになっていた。
三年生になって最初の進路調査のこと、でっかい夢だけを念頭に、とんでもない希望を書いてくる生徒が多い。
学年主任の手に一枚づつ渡しながら、その希望と今後の指導方針を話し合うのだが、なるべく本人の希望に沿うよう擁護していたら、初っぱなからバッサバッサと切り捨てられた。
それだけでも気が重いのに……。
傍らのクラス名簿、学年主任の指がついにその名に置かれる。
「次は……ああ、春川ですね」
学年主任が頬を弛ませた。まるで、肩の荷が降りたと言わんばかりに。
「それが、桜子とはまだ…面談が終わってないというか…その……話し合いの余地があると言うか……」
しどろもどろに言えば、学年主任はわかったように頷いた。
「自分を卑下して、低く出しましたか? それなら、高く直さなければ。あの子なら華栄だろうが、海王だろうが、どこだって受かる」
学年主任の口から飛び出したのは、いままでの生徒ではダメだと切り捨ててきた学校ばかり。何年に一人の生徒しか合格できない学校だった。
自分だって、てっきりそうだと思ってた……。
「それで、何処なのですか?」
調査用紙も渡さずにぐずぐずしていたら、学年主任に睨まれた。
もう腹を括って言うしかない。
「それが…あの……就職希望です……」
* * * *
すっげぇ怒られた……そりゃ当たり前だ。
うちの学校どころか、全国模試でも上位に名前が載る生徒なんだから。
だけどなぁ、本人が……ハァー!
特大のため息を吐きながら、トボトボと帰り道を歩く。いつもなら通らない道、駅前の公園を横切ろうとしたのも、そんな気分のせいだ。
外灯に葉桜が青々しく耀き、淡い若葉の香りを光りの粒子に乗せて漂わせているみたいだった。まだカップルが愛を囁きあうには肌寒く、静けさに身も心も包まれて、てっきり誰もいないと思ったのだけど。
公園の出口に近い外灯のした、ベンチにぽつんと座る姿は──
ピタリと足を止めて、背を向ける。
何やってんだ!
自分だってわかってる。だけど、あの子は苦手なんだ。
顔、姿じゃない、その何とも説明できない何かが、二年前に別れた美樹を思い出させる。学校ならまだしも、校外はまずい!
足早に引き返そうとしたら、
「先生、どうしたのですか?」
春川桜子に呼び止められた。
ハァーッ!と再び特大のため息を吐き、ベンチへ足を向ける。形だけでも取り繕うと、厳めしい顔を作り、重々しく注意しようとしたら。
傍らのエコバッグを見せて、
「スーパーで買い物して来たんです。この時間になると安くなるんですよ。
そのついでに、お父さんを待ってます」
そう言って、エコバッグを膝の上の乗せてニッコリ。しっかり隣を開けられた。
まただ……。
しぶしぶ顔をしかめて座れば、桜子にクスクス笑われた。
「わかりやすいんですよ、先生って! 誰かに言われたことないですか?」
パッと浮かんだ一人の顔。だけど、生徒に言えるわけもない。
無表情で口をムスッと閉じたら、
「元カノさんですか?」
ズバリと言い当てられた。
もう怖いよ、この子……。
こちらは心がメゲかけているっていうのに、桜子は興味津々だ。
「先生がフッたのですか?」
「いや…そのな……」
「フラれたんですね。何でですか?」
「それは…その…何だ……いろいろあってだな……」
担任の生徒を相手にしどろもどろ。これって尋問だよね……。
教室では、こんな子じゃないんだ。
そりゃ三十人もクラスに居れば、いろんな子が居る。反抗的な態度で気を引こうとする奴、こちらから積極的に踏み込まないと心を開かない奴、大人ぶった色目で心配させる奴だって。
でも、春川桜子という生徒はその何れにも属さない、教師からすれば天使みたいな子だ。
授業は真面目に受ける。提出物はO.K.。他の生徒とも問題を起こさない。教室では明るく、笑顔で、品行方正。他の先生方にも受けがいい。
そんな天使が二人っきりになると、進路相談なんてうっちゃって、こちらのプライベートにぐいぐい突っ込んでくる。
これって、何なんだか……。
もう心がポッキリ折れそうになって、小さくため息を吐いたら、
「もったいないっ!」
唇をとがらせてボソッと言う。
おもわず素に戻って、
「そりゃさぁ、俺なんかにそうそう彼女なんて出来そうもないけど──」
「──違いますよ。その元カノさんがです」
途中で遮られて、一瞬ポカーンと顔を見詰めた。
「どうして──?」
と訊ねかけたら、桜子は明後日に向かって大きく手を振り、眩しい笑顔で立ち上がって、「お父さんです」と告げた時にはもう小走りだ。
そのスカートを揺らして走る後ろ姿に見とれていたら、クルッと振り返った。
「先生のそんな所がですよ」
桜子は笑顔で言って、走り去った。
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