執筆によりもたらされた異世界

 ある日突然、僕は「ツイキャス」をインストールした。いや、むしろ突然に起きた事象はYouTubeに動画を投稿したことに起因する。

 端的に言って、僕の現段階における至上命題とは執筆と小説コンテンツの盛況にある。そういった考えもあって、「継続は力なり」という金言に背いて音声の入った動画は消去。残るは以前録画した『AIR』聖地・煙樹ヶ浜の風景と、これまた以前制作した自作小説紹介スライド。

 しかし、何故だか言葉による力の恩恵を受けたい気は薄れておらず、翌日、ツイキャスを登録したのだった。

 結果から述べれば、こちらも閲覧数は少ない、いやゼロに等しい。それ故に実際のところは、投稿ではなく視聴に重きを置いている。


 だがこのツイキャス、学びとなる事はそう多くないのも現状だ。一般人がYouTubeに勝るとも劣らず入り混じる一方で、いわゆる知識人層は少ない。

 かつての僕はTwitterにも同じように感じていた。これらは大抵、駄文であり、それどころか嘘偽り・虚言・虚構で構成されていると。仮にTwitterを眺める時間があるのならば本の一文でも読み給え。そんな時代錯誤な教養主義者がいざ始めてみると、世界はなんと広いことかと言わんばかりの博識者・志士の方々の存在を知る。

 文明とは小さな村社会に、異人が攻め入ることで、異なった文化・武器・思想を取り入れたように、「井の中の蛙大海を知らず」の具体例を演じてしまったのだった。


 閑話休題。言ってしまえば確かに学者層は皆無に等しいツイキャスだが、ここには同じような境遇であるとか、共通理念を掲げる志士も見受けられるのだ。

 日常で語ることの少ない抽象的議論相手を見つけるのに、これほど適した社交の場は現代日本にはそう多くはないだろう。

 これはネットであるが故の利点であり、察するにニコニコ動画や掲示板などでも同様の効果が期待できるはずだ。YouTubeでは、完全に作り手と享受する者とに分割されるので、憧れの人は見つけられても、同士を得るのは難しい。

 つまりはツイキャスなどの世界は、文化サロン的利用ができ、売名を越えた関係性を得ることがあるのだ。

 自粛に伴い、現実的人間との接触が激減し、そんな中での新たなる、そして最大幸福の目標である執筆を見出した今。「読者」という関係性はもちろんのこと、それまでの関わる人間がほぼ全域において一新され、ある種文明開化的な、創作者でありながらも鑑賞者という、必ずしも二元論に当てはまらない精神性を得ることができた、このたまさか訪れた自由に今は精一杯感謝したい限りだ。

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