栄えずに栄枯盛衰を知る
昨日、日記を振り返ってみて驚いたことがある。五月、僕は小説とネット世界を過ごしやすい環境にするべく、日々顔を出していたのだ。しかし、広い視野で見れば、何ら新しい出来事・改革はなく、成長の一点集中に力を注ぎ過ぎである。それは確かに一言で無駄とは言い切れない。
しかし、人生的視野で、あるいは作家の成長譚として客観的に見れば、それは停滞や定住と表現できる。
何かに挑戦しなければ、それは必ずしもたいそれたものでなくても構わない。○○に初めて行ったという風な「五月には○○をした」と明言できる何かが必要なのだ。
光陰矢の如し。あと数日で六月となり、そしていずれは、いや、六月であれば十分、あの夏の冒頭部分としての資格を持つ。それなのに僕は何も出来てはいない。小説は本当に喜ばしいことに、感想をくださった数名が皆、称賛に近い言葉を僕に生きる糧として、創作の原動力として授けてくれた。
では人気作家なのか。いや、そんなことはなく、どうして人気作家などと名乗れようか。
バッドエンド小説は確かに執筆し、ともすれば、ゲームシナリオ風な展開にも仕上げてある。僕はゲームを制作する知識を持ちえないが、原案として欲しがられてもおかしくない傑作だと自認したあの小説の星で表される評価はいくつなのか。
ゼロである。
これがリアル。これが今の知名度。これが僕だ。
確かに読まれてはいる。だが、レビューはおろか応援コメントですら皆無であり、挙句の果てには応援を示すハートも一つくらいだった気がする。なんだこれは。僕のこの感情は、売れないクリエイターというよりもむしろ、脈々と続いてきた王朝が、自分が即位した途端に衰亡の兆しを見せ始め、「なぜ、名誉ある
とにもかくにも、可及的速やかに新たな指針を規定し、構想段階の域を出ない次なる連載ものに着手しなければ明日はない。これは決して比喩などではなく、代金を必要としない投稿サイトを利用した小説スタイルの新陳代謝・自然淘汰は著しいものがある。今日の読者が明日も読んでくれるとは限らない。だからと言って分析を超えた大衆迎合となっては本末転倒。したがって僕にできる確実な一歩とは、新作を書き、今ある小説を更新する他に、今はないのである。急げ、夏はもうすぐそこまで見えている。
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