第107話 悩み解決
「気持ちいいね」
「俺は疲れたがな……」
美麗のいたずらに耐えた俺は、ゆっくりと湯船につかっていた。
温泉の効能は肩こりや血行改善など一般的なもので、どうやら心労を直す効能はないらしい。心労直す温泉ってそれもうブラック企業に設置すればいいんじゃないんですかね!
「それはごめん」
「一応悪いことをしている自覚があるだけ許してやろう」
「いや、それはないけど」
「あれよ!」
バカな会話をしているのも、深夜だからだろう。
大自然に俺たちの大声が吸収されていく。岩に染み入る蝉の声、は少し元の意味と違うのか。
「まあおかげで色々とすっきりしたわ。ありがとう」
「ん」
美麗は隣でちゃぽんと音を立てる。
近い距離にあって鎖骨が見えてて微妙にエロいのだが、ここまで来てしまえば見なければいいというだけである。
「それより曲のほうはどうなの? できた?」
「ん、まあ出来はかなり良いといってもいい。ただまだ完成に時間はかかる」
「そっか」
静かにそうつぶやく美麗。
その声には安心感が漏れているように聞こえた。
「はあ」
「ふう」
暑い時期に温泉というのはどうかとも思ったが、思いのほか気持ちのいいものだった。
箱根は空気が涼しく澄んでいる。緑に囲まれた温泉は、仕事の疲れを取るにはぴったりの場所だろう。
俺たちの間を流れる音はどぼどぼというお湯が水面に打ち付ける音だけ。
この世界には俺たちしかいないんじゃないかって思うほど、この場所は世界から切り取られた場所になっていた。
「あのね、凛」
「なんだ」
そんな空気に落とし込むように、美麗はつぶやく。
「私ね、不安なの」
「不安? お前がか?」
「……うん」
恥ずかしそうに、美麗はそう言った。
自分でも自分らしくないと思っているのかもしれない。
「なんだ、歌唱力か? それなら十分っていうかありすぎなくらいだろ」
「いや、そうじゃなくて」
「なら……なんだ?」
できるだけ深刻になりすぎないように、だからといって適当に返さないように慎重に聞き返す。
重い沈黙の後、美麗は静かな空気を切り裂くように口にした。
「飽きられちゃうんじゃないか、って」
「飽きられる……?」
思いもしなかった答えに思わず聞き返していた。
思いもよらない、あるいは美麗とは無縁の悩みだと思われるその答えに。
「お前ほど売れてるやつが飽きられるって、いったいどういうことなんだ?」
「私もわかんない……。でも、ほら、私ってバラードばっかりだから」
そこでぷつりと切った後、また美麗は言葉を継ぐ。
「おんなじような曲を歌って、『ああまたこういうのか』って思われて、次第に興味をなくされて、飽きられる。そういうのが怖い」
「お前……」
「寂しい曲しか歌えないのに、それも飽きられちゃうんじゃないかって」
声を震わせる美麗。表情は沈んだまま、湯に映し出されていた、
たしかに、美麗からもらう曲のリクエストはいつも静かな曲だった。短調の、暗い曲ばかりだった。
それでもたしかに彼女の声質に合わせるのならそれが良いと思って、俺もたいして深く考えることもしなかったが。
「明るい曲を歌って、ファンに嫌われるのも怖い。でも、寂しい曲を歌って飽きられるのも嫌なの」
だから今回もバラードをどうしても入れたかったのだと、美麗は言った。
最悪、カバー曲の方で落胆されても、いつものような曲を歌えば後れを取り戻せると思ったらしい。
「……そうだったのか」
正直意外だった。美麗が自分のことを冷静に分析していることもそうだし、ファンのことを思って歌っているというのも正直なところ意外だった。
そりゃファンのことを大切にしているとは思っていたが、天真爛漫を思わせる美麗の姿はどこまでも自分を追い続けるように見えたから。だから、 こうして現実を語る美麗の姿は意外だった。
そして同時に――あほだと思った。
「馬鹿かね君は」
「――?」
美麗が俺のほうに振り向く。
やめて、きわどいから。体、きわどいとこまで見えてっから。水着着てるけど、着てないように見えるから。
誤魔化すように口調を偉そうにして、美麗に説教まがいのことを言い始める。
「何がバカっていうの」
「馬鹿だよ。君ってやつは、馬鹿だなあ」
「な、なにが」
「――歌が飽きられるのなら、それは似たような曲しか書けない作曲家のせいだろ」
「――っ‼」
驚いた顔をする美麗だったが、俺からしたら驚くようなことは何一つない。
「曲調が似てる? じゃあ似たような曲調にしかできない俺が悪いな? 寂しい曲しか歌えない? 寂しい曲でもごまんとあるんだそれで似たようなものにしかならないのは俺の腕が悪いだけだろうが」
「……………………」
「はああ、美麗にそう思われてただなんて、俺もまだまだだな。ダメダメだよ」
「そ、そんなことは」
美麗は慌てて否定するが、美麗が言った悩みを生み出したのは俺の失敗でもある。
そんなことを感じさせてしまうのはまだまだである証拠だ。
「お前は心配しなくてもいい。客に飽きられるようなことは、俺が絶対にしないから」
ぽん、と美麗の頭にタオルを乗せる。
美麗はその重みに合わせて顔半分が温泉の中に沈んだ。
「そんな悩みを思うくらいだったら、歌手としてもう一枚も二枚も剥けてくれ。へっぽこ作曲家の俺が曲を作りやすくなるからよ」
「…………うん」
美麗の言葉に感化され、むしろやる気が上がってきたのは俺の方だった。
もっといい曲を書きたい、もっと気持ちよく美麗に歌わせてあげたい。まだまだやれることはたくさんある。
「よし、じゃあ最後の追い込みがんばろー!」
「お、おー!」
美麗を置いて俺は風呂を出ていた。
美麗の顔が熱以外で赤くなっていたことには、当然気が付かなかった。
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