第106話 行き詰まりと息抜き

「はぁ……なんであんなこと言っちゃったんだろ……」


 あれからすぐに猛烈に後悔した。1日目の夜には我に返ってしまっていた。

 2日目の昼には一度絶望し。その夜には深夜テンションで作ったが翌日の朝に我に返って全没。


 よって、何一つ進んでいなかった。


 メロディーは浮かんでこないし、詞は思いつかない。バラードであること以外何も決まってない。

 溜めておいたアイデアのストックも今回のについてはどれもしっくりこない。というかどんなものがしっくりくるのかわかってない。


 そして期限はどんどんと迫ってきて、精神的にも身体的にも追い込まれていた。


「凛。お茶持ってきたよ」

「さんきゅ……」


 美麗がグラスにお茶をなみなみに注いで持ってくる。

 気持ちはめちゃくちゃありがたいが、飲みづらい。てかどうやって持ってきたそれ。


「わりいな、お前も忙しいだろうに」

「休憩中」

「そこは『忙しいけど私が言い出したことだから』とか言いなさいよ君」

「私も余裕はない」

「正直だね君ほんと‼」


 もうちょっとしおらしく励ましてくれてもいいんじゃないの? ねえ、ほんとは俺のこと嫌いなんでしょそうなんでしょ?


 ――まあとはいっても、美麗も相当に忙しいのは分かっている。

 覚えたての曲を少しアレンジしながら自分のものにしていくのは大変だ。


 ましてや美麗は名誉あるシンガーの一人。下手なカバーで済ませることはできないから、練習にも緊張感がある。


「あと4日かよ……。きついな」

「正直言って、そろそろできてくれないと厳しいよ」

「お前の言葉が一番厳しいよ僕ちんは」


 美麗の言ってることは間違っていないのだが。本当に間違っていないのがどうしようもなく心に刺さっているのだが。


 デミ祭まではあと4日。そろそろ出来て合わせ始めないと本番のクオリティにも影響してくる。

 ただ、だからと言って曲の質を下げるのも当然ナンセンス。この塩梅が難しい。

 もちろんどちらもある程度以上のクオリティを確保するのが当然なのだが。


「でも、私なら1日あれば大丈夫だから」


 そんなことを考えて没頭していると、ふと背中に重みを感じた。


「ど、ど、ど、どうした?」


 重みと一緒に柔らかさも感じ、動揺する。

 頬を美麗の長い髪がくすぐって、こそばゆい。


「大丈夫だから、心配しないで」


 だけど、動揺しているのは俺だけだったようだ。

 背中からは心地よい温かみだけが感じられる。


 美麗のはっきりした声が手に力をもたらす。俺も早く打っていた鼓動が落ち着いてきて、やがてやる気がみなぎってくる。


「ありがとう美麗、元気出たわ」

「私が天才であることを忘れないで」

「ほざけ。そんなん忘れたことねえわ」


 外を見ると、太陽はてっぺんにようやくたどり着いていた。

 まだ時間はたっぷりある。そんな気持ちになれる暑い夏だ。


「よっしゃ。今日1日で作ってやるぜ‼」

「じゃあがんば」


 がんば、ってなんだよ。もうちょっと丁寧に言ってくれよ。投げやりに言うな。




 ―――――――――――――――――――――――――――――――――




「――んっ、りん、凛ってば」

「んぁあ?」

「起きて。もうスタジオ閉まる」


 肩をゆすられ意識が覚醒してくる。

 近くにあるデジタル時計を見てみると、時刻は23時を指していた。


「んーねみい……」

「早くホテルに戻らないと。寝るならホテルで」

「悪い悪い」


 パソコンだけ持ってスタジオを美麗と二人で出る。


「寝汗かいたな、じめじめする、気持ち悪い」

「まだ暑い」


 夜といってもまだ昼の熱が残っていた。


 美麗が車を呼んでくれていたので、すぐに乗り込む。


「ホテルもどったら風呂でも入るか~」

「そうだね、私も入る」


 美麗の顔に疲れは見えなかったが、内心かなり疲れているのかもしれない。

 車の扉側に寄りかかって、それから俺のほうに頭を預けてきた。


「疲れたか?」

「――凛の肩、汗でぬれて気持ち悪い」

「自分から頭乗せてきておいてそれは傷つくぞ……」


 臭いって言われる前に風呂に入ろう。うん。


「じゃあ一緒に温泉に入ろうね」

「ああ、いいよ…………って、え?」

「混浴。あるから」


 美麗は顔を前に向けたまま、とんでもないことを言い始めた。


 いやいやおいおいまてまて。


「さすがにそれはまずいだろ! ていうか、え、俺と美麗が一緒に⁉ むりむり」

「せっかくの温泉じゃん。二人で入ろう」

「意味が分からんのだが」

「だめ?」


 だめだろ。いや、だめだろ。俺が主にだめだろ。


「大丈夫。水着の貸し出しはあるみたいだから」

「そういう問題か? そういう問題なのか?」

「全裸でも私はいいけど」

「そういう問題ですね!」


 あぶねえ、こいつの羞恥心とかどっかねじが外れてやがるわ。


「じゃあ10分後ね」

「お、おお」


 そしてなし崩し的に一緒に温泉に入ることが決まってしまっていた。




 ―――――――――――――――――――――――――――




「凛~入るよ~?」

「おお……」


 きゅーという高い音とともに入ってきたのは、タオルに身を包んだ美麗だった。


 身を包んだといっても、最低限隠れる程度しかない。

 しかも水着部分が全部隠れているから、その、あの、裸に見える……。


 太ももも大部分が露わになっていて、その真っ白で肉付きのよい部分とそこからしなやかに伸びる脚が蠱惑的だった。

 長い髪を後ろにおろしている姿も普段見慣れない姿でドキドキするし、言うまでもなく強調されている胸には視線が吸い付いてしまう。


「……変態」

「あ、いや、べべつにそんなつもりじゃ」

「犯罪者はみんなそう言う」


 なんも言い返せなかった。たしかに意識していた。


「てか、本当に誰もいないんだな」

「この時間だからね。普通は入れない」


 本来は清掃の時間だったそうなのだが、美麗が言ったら快く許可してくれたそうだ。


「じゃあ、体を洗おう」

「おう、そ、そうだな」


 そういって立ち尽くしていた俺は体を洗うために低い椅子に座る。

 そしてシャンプーを手に付けようとしたところで、後ろから手が伸びるのが見えた。


「え?」

「洗ってあげる、疲れてるみたいだから」


 いつも以上に早口になっていた美麗に押されるがまま、俺はその場に静止していた。

 そしてそれを見た美麗が、ゆっくりと俺の髪に指先を入れる。


「んっ」

「変な声」

「しょ、しょうがないだろ! 人に髪を洗われる経験なんてないんだから」

「じっとして」

「はい」


 そうはいっても妙にこそばゆい。

 人に髪を洗われるってこんな気持ちになるのか。あと、なぜか美麗が人の髪を洗うのがうまい。


「お前なんか慣れてないか?」

「犬の毛を洗ってるのと同じ」

「俺は犬ですかい」


 動かずシャンプーが目に入らないようにぐっと目を閉じる。

 たしかに、はたから見たら犬みたいになってるかもしれない。


「はい、シャワー流すね」

「おう」


 そして考えは別のことに移る。


 ――これってもしかして、体も美麗が洗うのか? え、そのデリケートな部分はいったいどうすれば……いや、洗ってもらう選択肢は当然存在しないのだが、じゃあいつ洗えばいいんですか?


 あと、スポンジとかないんですが、もしかしてこれって直で触られるやつですか?


「な、なあ、美麗。提案なんだが」

「なに」

「体は自分で洗わせてくれないか? そう、自分で洗いたいんだうん」


 初めていったよこんなセリフ。


「体も私が洗うよ。疲れてるでしょ?」

「い、いやぁ? 自分が洗ったほうが楽というか、むしろ洗われるほうが精神的に疲れるというか」

「ん? なんか下手だった?」

「いやあ、そういうわけじゃないんですがあ」


 説明むっず‼ ここまで来たら察してほしいんだが⁉


 と、そんなことを思っていたら意外とあっさり美麗は引いてくれた。


「じゃあ分かった、体は自分で洗って」

「お、おお! ありがとう!」


 なんで俺がお礼を言ってるんだかわけがわからないが、たぶんそういう世界なんだうん。


「その代わり、私の体、洗って」

「――――――――は?」


 いま、なんとおっしゃいました?


「女の髪の毛は難しいだろうから自分で洗う。だから、体は凛が洗って」

「えっと……いや……は?」

「いいね?」

「いやよくないと……」

「洗え」

「命令」


 そしてあっさり言われるがまま、俺と美麗は場所を交代した後、手にボディーソープをつけることになった。もちろん手に直接だ。


 目の前には綺麗なうなじ。白磁のような白い背中。ほそい体。

 緊張が富士山の山頂にまできていた。俺の緊張、県を超えて山梨まで行っちゃったの?


「ほら、早く」

「ええと……失礼します」


 なんだか情けなくなってきた。断れないのは、自分にやましい気持ちがあるからに違いない。

 それでも、俺の手は美麗の肩に手を付けていた。


 やわらかい。そして妙にみずみずしい。

 細くて華奢。心配になるほどだった。スタイルにも気を付けているのだろう。


「何で肩ばっかり洗うの。ほかのとこも」

「は、はい」


 言われるがまま肌が出ている部分を洗っていく。

 背中、おなか、太もも、足。

 危ない部分は無心にして洗っていた。本当に無心、やましい気持ちなど山梨のなしの中に入れてきた。あれ、山梨ってべつになしで有名じゃなかったっけ。桃か? いやわからん。


 桃……おしり……メロン……おっぱ……。

 いや、やましい気持ちばっかやんけ‼


「洗い終わりました……」


 邪念との戦いにすべてを使い果たした俺は、ぐったりした顔で美麗に報告する。

 たぶん洗い方が雑になってるから、自分でもういっかい明日の朝くらいに洗ってくれるだろう。


「水着の下は?」

「言ってくると思ったよ……さすがにその冗談には付き合えないから、自分で頼む」


 さすがにそこまできたら明確にアウトだとわかる。

 微妙に線の手前か奥かわからない部分より明確に線超えちゃってるやつのほうが楽だね。うん。


「…………」


 美麗はすごく不満そうな顔をしていたが、さすがにこれ以上は無理だと感じたのか。もくもくと俺が洗ったところも含めて自分で洗っていた。

 それなら最初から自分で洗ってくれよ……。頼むよぅ……。

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