第103話 夏、水着

「あ、お疲れ様です、春下さん」

「こんばんは。お疲れ様です」


 夕方、春下さんと一緒にやってきたのは、真っ赤に染まった海が目の前に広がる海岸だった。


 どうでもいいけど、お疲れさまってすごく便利な挨拶だよな。どの位の人にも使える万能の挨拶だ。最強。


「すみません、わざわざ来てもらって」

「いえ、春下さんが言うことでもないですよ。PVに付き合うって言ったのは僕のほうなので」


 真夏の湘南。とはいっても日はかなり傾いてきてしまったのでリゾートというより黄昏という言葉のほうが似合いそうだったが。

 そんなところにわざわざやってきたのは、春下さんの新曲PVの撮影がとり行われるからだった。


「春下さんはもうすでに準備してるんですか?」

「ええ、リハーサルみたいなことをしたり、打ち合わせを入念に行ってます。まあ、時間帯が限られるだけに失敗はできないので」

「なるほど……。それは、お疲れ様です……」


 あっけらかんという彼女に対し、今度は典型文ではなくちゃんとした気持ちを込めて言っておいた。

 こんな真夏に日が高い時からいたというなら、疲れがたまってきていてもおかしくない。


「いえ、お昼はちょっと泳いだので、気分転換ができて楽しかったんですよ、実は」

「あ、そうなんですか」


 そこでふと魔が差した。魔が差したって自分で言う奴いないと思うけど、とりあえず魔が差した。


 真夏の海辺。水着ではしゃぐ春下さん。

 パシャパシャと仮想彼氏に向かって水をかけながら、真っ白な歯を見せて笑う春下さん。

 そしてそのまま視線を下にスライドしていくと……意外と黒色の大人っぽいやつだったりして……ってなにを考えてるんだ‼ 失礼だろうが!


「と、とりあえず他のスタッフさんにも挨拶してきますワ~」


 あぶねあぶね、邪な気持ちで春下さんと相対していたら、罪悪感で死んでしまいそうだ。

 というか知られたら殺されそう。


 と、早々に逃げ出そうとしていたのだが。


「ち、ちょっと、待ってくれませんか?」


 申し訳なさそうな声で春下さんがそう言った。


 予想をしていない呼びかけに、胸の内で考えていたことを糾弾されるのかと一瞬思った俺はどきりとしたが、平然な顔を繕って振り向く。

 ばれていると思うからばれるのだ、ってどっかの偉い人が言ってた。


 まあそんなことはともかく。


 振り返り春下さんのいた姿に視線を向けるとパサリ、と音がした。

 そのまま視線をあげていくと、そこには俺が想像したような黒色の水着を着て恥ずかしそうにこちらを見る春下さんがいた。


「え……え⁉」

「どう、ですか……?」


 どうもなにも。


 めちゃくちゃ似合っていた。


 セパレートタイプの水着なのでおへそも見えているし、胸部のゆたかな果実もそれによって生まれた谷間もしっかりと存在感を示している。

 黒色の水着と真っ白な肌。夕日で肌には影を落としているが、それでもなお艶めかしい。


 太ももには程よい肉付きがあり、そこからすらりと伸びる脚は普段露出していないことを不思議に思うほど美しかった。


 そこで、どうやらラッシュガードをいつの間にか脱いでいたのだと考えが至ったのだが、そんなことはどうでもよくて。


 もう一回だけ言わせてもらうと、この世のものとは思えないほど似合っていた。


「どう、と、言われても……」

「似合ってます、か?」

「そりゃ、もう、似合ってると……思います」


 本当だったらこんな恥ずかしがらずに言うべきなんだろうが、あまりに突然のことだったのと自分が想像していた以上に綺麗だったので言葉に詰まってしまった。


「ふふっ、そうですか、そうですか」


 そして春下さんは悪戯が成功した子供のように相好を崩す。

 それがまた一層、色気を引き立てていた。


「実は私が選んだ水着なんですよ。もともとは水色のものが用意されていたんですけど」


 そのまま上機嫌な春下さんは、あっさりネタばらしをする。

 ぺろっと舌を出していて、そんな子供っぽい春下さんを見るのは初めてだった。


「ああ、そういうことだったのか……」


 そして俺は俺で合点がいっていた。たしかに自分が選んだものだったら、ちゃんと似合ってるか他人の感性を気にするわな。

 それはそうだ、うん。


「なんか勘違いされてるみたいですけど、一番凪城さんが好きそうなものを選んだんですよ?」

「――え?」


 だが、気づくと春下さんが不服そうな顔でこちらを見ている。先ほどの上機嫌な顔から一転、不満ですよと体全体で表現していた。


 しかし、俺はそういった見た目の違い以上に重要な言葉をきちんと耳に捉えていた。


「え、俺の好きそうな?」

「水色のもっとふわっとした感じのものもあったんですけど、凪城さんは露出が多いほうが好きそうだなって」

「なんか人を変態族みたいに言ってません? というか、俺の好きそうなもの、って……」


 さらっとひどいことを言われた気がしたが、そんなことはどうでもよかった。


 それ以上に春下さんの言葉の真意が知りたかったからだ。


「そ、その水着を俺が好きそうって、どういう意味、ですか?」


 しかし、そう問いかけると先ほどまで余裕そうに表情をころころ変えていた春下さんは、途端に困ったような顔をした。

 そしてまたポンと手をたたくと、別の話題を出す。


「う、海って綺麗ですね~。最近はごみが多いと聞いていましたが、いいロケーションですね~」

「それ、天気いいですねくらい話に中身がないですよ。確かにきれいですけど。それよりも、さっきのって……」

「あ、そろそろ準備しなくちゃ! じ、じゃあそろそろ行ってきますので!」

「あ」


 そしてそのままの流れではぐらかされてしまった。


 たったったっ、と砂浜をビーチサンダルで走っていく姿はやけに小さく、そして焦っているように見えた。


「なんだったんだ、さっきの言葉……?」


『凪城さんが好きそうなものを選んだんですよ?』


 どうして俺の好みに合わせてくれたのか。どうしてそのことを俺に教えてくれたのか。そして教えたくせにどうして聞き返すと曖昧にされるのか。

 普段は明確に言葉にする春下さんの慣れない言動に、俺の頭はついていかなくなっていた。


 そして彼女の置き忘れたラッシュガードを持って撮影現場に戻ると、すでに春下さんは集中していて声がかけられない状態にあった。


「春下さんって、こんなに自由な人だったか……?」


 まるで琴葉や美麗、あずさたちみたいだ。

 勝手に人の動揺を誘っておいて、自分の都合が悪くなるとふわっと雲のようにつかめなくなる。


 それなら、先ほどの春下さんの言葉も、追及されると不都合な言葉だったのだろうか。


 ――まさか。


「俺の好みを……男の共通の好みだと思っていたのか……⁉」


 男を一体何だと思ってやがる……。いや、でもファン層への需要を意識した立ち回りか……。

 さすがプロ、きちんとしたマーケティングのもとで衣装を決めているのか。衣装担当がそこまで意識が回らなかったからって。

 でも男をみんな変態だと思うのはよくない……たしかに春下さんも正面切って言える話じゃないか……。


 ……だがいくら男性受けを狙ったとはいえちょっとその露出度は高すぎるから控えてほしいな……とどの目線で語ってるのだか分からない勘違いな感情を抱きながら、彼女のPV撮影を眺めていた。


 それにしても今日の春下さん、いつもと雰囲気が違ったような?

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