閑話 彼女の思惑と彼の激怒

「何をしているの、こんなところで」


 その声は妙に場に響いた。声音自体は大した大きさもなかったはずなのに、だれもがその声を聴かなければならないと本能的に感じていた。


「春下……鈴音……?」


 彼女に支配されたその空気に対抗して唯一声を出すことができたのは、その場で彼女の次に地位を持っている存在だった。


 だが、鈴音のほうは北条に目もくれず、視線は一人の男に置かれていた。


「あぁ? なんだテメエ…………ってお前、あの春下鈴音かっ⁉」

「なんで春下鈴音がこんなところに……?」


 動揺を隠せないのは高崎だけではなく、北条のほうもそうだったが。

 だがしかし。


「質問に答えてもらえるかしら? あなた、今なにをしたの?」


 その質問に答えるものはいない。いや、だれも答えることができなかった。

 その有無を言わさぬ冷たい言葉に、だれもが息をのんで静観していた。


 誰も反応を示さないことを確認した鈴音は、そこでようやく自分のまとっていた怒気を少し剥がして、それから倒れている凛のもとへ駆け寄った。


「あなたも無茶をするんですね……」


 驚きとともに、いたずらをした子供をたしなめるような声で。

 鈴音は凛のほおをなでながらそんなことを口にした。


 その光景はさながら聖母のようで、その姿にただただ魅入られていた。

 映画のワンシーンのような、ルネサンスの絵画の一枚絵として残すことができそうなそんな幻想的な一幕だった。


 そして、その静かな水面に波紋を起こしたのはもちろん。


「あ? お、お前も凪城と知り合いなの……か?」


 高崎はおじけづきながらも鈴音に話しかける。相変わらず足は棒になって動けなくなっていたが。


「初対面の人に対して『お前』呼びはいささか失礼だと思うのだけど……もしかしてそういうことを教えてもらわなかったのかしらね」

「あン?」


 だがそれでも見た目だけは威圧感を醸し出している高崎に対し、鈴音は臆することもなく喧嘩を売る。

 明らかに挑戦的な態度に北条もあっけにとられ、それと同じように周りにいるギャラリーはどんどん増えていた。


「ほ、本物じゃない……?」

「すげえ、本物だ!」


 そして人数に比例してどよめきも増えていく。


 それに対し本人はまったく気にしていなかったが、高崎にとっては面白くなかったのだろう。


「おう、ちょっとこっち来いや」


 少し無理にでも強気に出て鈴音を動揺させる手に打って出たのだが。


「……ふっ。まるで獣ね」

「はァ⁉ なんつった今⁉」

「しかも凪城さんの時に比べてずいぶん怖気づいているようじゃない。ただの獣よりも臆病さんなのね」


 そこで、明らかに様子がおかしいことに気が付いたのは、北条だけだった。


 明らかに口調が、挑戦的というかありていに言ってしまえば喧嘩を売っているようにしか聞こえなかった。

 ――まるで、自分に対して何かアクションを起こさせるかのような。


 だけど、何のために? 自分が殴られたりしてどこにメリットがあるっていうの? 

 彼女は女優をやっているのだから、万が一にも顔に残るようなけがが起きたとしたら大変だ。じゃあ、やっぱり自分の思い違いか?


 ――それとも、それだけのリスクを負うだけのメリットがあるとしたら?


 取り返しがつかないような予感がした北条は必死に思考を巡らせる。

 思い違いである可能性をもはや排除して、必死に理由を考えていた。


「まあそもそも、人を殴るという野蛮な行為をしているあなたが、私たちと同じような人間だとは思わなかったけど」

「なっ⁉」


 そして、反射的に高崎がこぶしを振り上げた瞬間。

 先ほどのシーンと重なった。


 凛が殴られた時と同じ、あのシーンが脳裏によみがえった。


 そして一つの理由が見つかった。


 ――でも、それだけのことで、彼女がそこまでするの? 彼女は凛くんのことを……?


 だが、その心当たりに行きついた時にはもう遅かった。

 高崎が鈴音の顔をとらえようとしていた。


「キャッ‼」


 思わず顔をそらした北条。

 だったが。


「こらこら、女性に乱暴をしようとは、いささか非常識が過ぎるでござるよ」


 高崎の振り下ろしたこぶしは、鈴音の眼前で止められていた。


「――あぁ?」


 どうやら思う通りの手ごたえが得られなかったらしく、高崎は不審に思った後に自分のパンチを止めた相手を見る。

 そしてその高崎に遅れて、北条も鈴音の身に起きたことを理解する。そして高崎の手を掴んでいる人間を見て、顔に見覚えがあることに気が付く。


「お前……沢村か⁉」

「沢村君……?」


 坊主姿に冴えないリュックを背負ったその男は、しかしその姿に似合わずひょうひょうと高崎のこぶしを止めていた。


「――ッ! なんでお前が‼」

「拙者にもショッピングモールに来る予定くらいあっても良いでござろう。実は服が一着、無為にしてしまったのでござってな」


 あまりにも調子はずれな回答に、予定通りにいかなかった鈴音もぽかんとしている。

 それは、この場にいる者みながそうだっただろう。


「えっと……春下殿でござったか……。いつも凛殿がお世話になっているでござる。拙者は凛殿の友人でござる」

「そ、そうですか」

「それに、北条先輩でござるではないか。こんなところで邂逅するとは、奇妙なこともあるものでござるね」

「沢村君、だよね……? 高校の時とずいぶん違うようだけど……」

「この剃髪でござるか? いやあお恥ずかしい、実は卒業年の時に剃ってしまったのでござる」

「そうなんだ……」


 沢村の調子に引きずられて、先ほどまで起きていたことを忘れてしまった二人。

 この場の支配者は鈴音でも高崎でもなく、沢村だった。


 そしてそのことに黙っていない男が、一人いた。


「沢村ァ、なんでてめえがこんなところにいるのか知らねえが、邪魔すんじゃねえよ!」

「邪魔、でござるか」


 それから、突然。ふっと先ほどの朗らかな口調から一転して、冷たい声を出した沢村。

 一瞬のことに高崎も気が付かず、ましてや沢村がその瞬間に床に倒れている凛の姿に目を向けたことは認知することができなかった。


「――ところで高崎殿」


 離れていた位置から高崎との距離を一歩で詰める沢村。


 周りに見えないように高崎の胸ぐらをつかみつつ、小さな声で問うた。


「――凛に何をした?」


 そこにいたのは、先ほどのぼんやりしている悠長な男ではなかった。

 高崎の胸を掴んでいる手には力が入っているし、語調も変わっている。作られたキャラが剥がれて、むき出しの沢村がそこにいた。


「沢村……くん?」


 その豹変ぶりに気がついた北条が不思議そうに聞くと、沢村はにこりと笑って振り返りながら言った。


「こっちは大丈夫でござるから、先輩は凛殿をよろしく頼むでござるよ」


 そこで、凛が倒れたままになっていることを思い出した北条と鈴音は、急いで救急車を呼んで凛への応急処置をとる。


「じゃあ、高崎殿とは向こうで話をするでござるね」


 そして沢村が高崎を力ずくで連れていく沢村の姿を片目に、彼女たちは凛の様子を心配していた。


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