第86話 ナガシマ⑤

 俺は覚えている。


 たしか、3時間前、つまり温泉に入ったあと、春下さんが言っていたこと。


『私がいる限り、そんなことさせませんからね』


 自信満々に言っていた。

 凪城凛が女に手を出そうものなら、自分が必ず成敗してやると。そう背中で語っていた。

 絶対に自分がいる旅行で、間違いを起こさせないと固い決意が見えた。


 その、春下さんが。


「んふふ……。ポチぃ……」


 あの……ぼく、ポチじゃないです。ぼく犬じゃなくて人間です。

 あと、ペットにポチってつけるなんて、結構春下さんもネーミングセンスが単純というか……まあそれはいいか。


 今大事なのは。

 どうしてこうなっているのか。なのだが。


 それは。


 ――――――――俺にも分からん。


「どうしてこうなった……」


 真っ暗な部屋の中につぶやきをこぼす。だが、誰も聞いている様子はなく、言葉は闇に溶けてしまった。

 すーっ、すーっと寝息が聞こえるくらい。多分これは美麗と雫さんのもの。二人はすっかり寝ているようだ。


 さて、一体何があったのか。どうにもまだ現実を受け止めきれていない俺は、寝る前のことを思い出してみる。


 部屋はダブルサイズくらいのツインベッドで、女性陣3人がベッドで寝るのにはずいぶんと余裕があった。

 ただ念のためにスタッフさんに言ってツインベッドをくっつけてもらい、そこで春下さんたちは寝たはずだ。「ふかふかで気持ちい~」と雫さんが大の字になっていた。

 そしてそのあと、消灯する直前に3人で川の字になっている姿を見たのは覚えている。


 一方で俺は、布団を出してもらってベッドから離れた場所に敷き、横になっていた。

 部屋が無かったことへのお詫びだといって、親切なサービスをしてくれた旅館の人たちにはすごく感謝しています。ソファで寝るのもしんどいからね。


 まあそれで、最初は春下さんたちと同じ部屋で寝るということでドキドキしていたのだが、消灯してからあっさりと音も聞こえなくなったので、俺も冷静になることが出来てゆっくりと寝られた。

 俺だけがドキドキしていたようで、彼女たちは疲れの方がもっと比重があったのだろう。


 とにかく、電気が消えたからまもなく俺も眠りについた。


 ……はずだったんだけどなあ。


 体に何か慣れない感触を感じて目を覚ますと、目の前で春下さんが寝ていた。

 それでさっきの状態になるわけである。

 もっと具体的に描写するとするなら、いつの間にか春下さんが俺の布団に入ってきて、俺をペットか何かと勘違いして抱き枕のようにされているわけだ。


 ――というか結構苦しいぞ⁉ いつも春下さんちの犬はどんな思いで夜を過ごしているんだ⁉


 俺の背中あたりから腕を回されており、ちょうど俺の急所が春下さんのやわらかゾーンに入り込んでいてマズい。


 俺は小さな声で彼女に呼びかける。


「あ、あのう……。春下……さん?」

「むにゃむにゃ……」


 相当いい夢を見ているらしい。

 いつもの鉄仮面が簡単に剥がれ落ちており、ニマニマとした顔で寝ている。凄く満足げだ。


「はぁ……」


 これだけ幸せそうに寝ている人を無理やり起こすのも忍びない。

 だからといって、このままでは寝れない。むしろ起き上がってしまう。


「まずは脱出を試みよう」


 体を上げていった方が抜け出すのには近いのだが、そうするともしかしたら足で春下さんの顔を蹴ってしまうかもしれない。

 変に起こしてしまうリスクもあるし、綺麗な顔に傷でもつけたら一大事だ。


 というわけで、下に脱出を試みる。


 もぞもぞと体をくねらせてちょっとずつちょっとずつ下がっていき、ようやく顔が並ぶくらいまでやって来た。

 暗闇の中で、ふわりと俺の顔を春下さんのくすぐる。


 そこで一度休憩。

 はぁ、と息を吐くと、ぶつかるかぶつからないかの位置に春下さんの顔があった。


「――ッ⁉」


 思わず息をのんだ。緊張感のおかげで無駄に跳ねたりしなかったのは幸いだ。

 今のこの状態で目が覚められたら……首が飛ぶ。

 起きたり、してないよな……?


「んんぅ……」


 吐息が漏れてきて、それが直接俺の鼓膜を刺激する。

 艶やかな息遣いに体を震わせながら、しかしどうやら起きていなかったようだと安心をする。


 だが、さらに体の拘束が強くなり、俺は石のように動けなくなった。


 ぼうっと天井を見ながら、素数を数える。2、3、5、7、……。


「ん、んん……っ」

「え、ちょっと⁉」


 俺が煩悩を退散しているというのに、春下さんは俺の気も知らずにさらに攻めてくる。

 彼女は抱きついている状態から腕を離したと思うと、今度は俺の胸に顔を乗せてきた。


 だが、逆にさっきまでの拘束が解けたということ! これはチャンス‼


「よし、今なら……」


 と抜け出そうとするものの、だが足できっちりガードされる。多分こうしていつも春下さんちのポチも脱走を試みているのだろう。対策は完璧にされていた。


 ――じゃなくて! 春下さんの素足が俺の足に絡みついてくるんですけど‼


 すべすべしてて、ちょっと筋肉質。

 少し冷たいしなやかな脚が、俺をつかんで離さない。

 そして無駄にすりすりとしてくる。寒いんだろうか。


 そしてたちの悪いことに、それだけ下半身に力を入れておきながら、リラックスした様子で俺の胸板を枕にして寝ているのだ。

 おい、頼むからその天使みたいな寝顔はやめてください。起こせないんですが。


 つまり、まとめると。


「脱出がさらに困難になったわけだが……」


 もはや脱走は不可能に近い。ミッションインポッシブル、諦めるしかないというのか。

 いつから俺は潜入スパイになったんだ。


 そして、どうするべきか悩んでいる俺に、春下さんは追い打ちをかけてくる。


「ちょっと、春下さん⁉」


 左側にいる春下さんが、俺の右足い一本に両足を絡ませてきたのだ。

 しかもそこから、もぞもぞと体を俺の足に擦りつけてくる。

 なんだ⁉ この人、もしかして猫なのか⁉ やたら人懐っこい猫なのか⁉


 猫ならいいのだが、あいにく相手は人間だ。しかも飛び切りの美少女。

 さすがに、何も反応しない男はいない。


「さすがに、もう無理だろっ!」


 身の危険を感じとった俺は、無理やり布団ごと春下さんを剥がした。

 それから手際よく彼女を持ち上げ、美麗と雫さんの間にこそっと置いといた。

 無論、そのどちらかをポチだと思ってくれと、そういう意図である。


「はぁ、はぁ……」


 色々なことに疲れた俺は、布団をもう一度整えて横になった。


 今日一番の爆弾はまさかの春下さんでした。



 こうして一日を終えた俺たちは、無事に休暇を終えてそれぞれの仕事に戻ることが出来た。

 ちなみにあの後、疲れていたのにもかかわらず春下さんの匂いがしっかり布団についてしまったので、寝ることが出来なかった。

 だ、だって、な、なんか、隣に春下さんがいるような気がして……。妙に彼女の体温が残っていたのも問題だろう。


 その結果、帰りのバスや新幹線の中は爆睡。

 俺の睡眠を犠牲に快眠を得た春下さんは、またいつものような冷静な顔つきに戻って美麗たちと談笑をしていた。


 ――役得のような、不遇のような。そんな気持ちになって終わったプチ旅行だった。





(これで遊園地編は終わりになります。 あと、近況ノートにも詳しく書く予定ですが、この作品は投稿時間や頻度を未定にさせていただきたいと思います。頻度が下がるというわけではなく、好きな時間に好きなだけ投稿するという形になります。自由なタイミングで書く分、内容をよくできると思います。どうか、ご承知の程、お願いいたします……! 作者)

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