第72話 幕張メッセ
あれから間もなく大学も春休みへ突入し、俺は家に缶詰めになって作曲をしていた。
バレンタインデーにあるライブまであと7日。そろそろ曲の大枠を作らないとまずいのだが、いまだに方針が決まらず悩んでいた。
バレンタインにあるということで恋愛に関する歌がよいとは思っていて、そこまでは決まっている。……逆に言えばそこまでしか決まっていない。
恋愛と一口に言っても、失恋ソングだったり片思いソングなのか、青春を描くのか大人たちのどろどろした模様を描くのか。そういったいろいろな選択肢がある。
今まではその時の気分や作りたいもので決めていたのだが、今は無理やり曲を作らなければいけない状態なのでそう言った気持ちが希薄になっていた。
ただ、漠然と曲を作りたいという思いだけくすぶったまま。
「うーん、これも違うな……」
曲のメロディーを考えながら悩む。長調か短調か、その方向性が決まらない。
ちなみに長調というと明るい曲、短調というと暗い曲という感じだ。
そうやって今日も今日とて答えが出ないまま頭を悩ませていると、正午を過ぎたころ携帯に連絡が入った。
どうやら差出人は春下さんらしい。
『今からライブ会場の下見に行きませんか?』
その意外な提案に、俺は目をぱちくりさせる。
春下さんがそんなことを言うなんて、どういう風の吹き回しだろう。
第一、俺と春下さんはそこまで親しくもない。
ことあるイベントごとに俺の家に来たりしてはいたものの、俺の家に入り浸る琴葉やラジオを共にする美麗、あるいは俺の部屋の上の階に住んでいるあずさほど親しくないし、あるいは前の一件でかなり話すようになった雫さんほどでもない。
俺が関わっている女性の中で一番ビジネスライクな人で、たしかに話すと面白い人だけど必要以上にかかわりを持とうとしてくるタイプの人ではなかった。
そんな人が俺を誘ってくれているとなると、なんだか深い意味まで想像したくなってしまうが多分違う。
それも何か仕事の役に立つのだろう。
「分かりました、と」
返信を入れると、『それでは2時に東京駅で』と簡素なメールがやって来た。
こういうところも性格が出ているなとちょっと笑ってしまう。
あずさだったら『2時に東京駅ですけど……遅れたら承知しませんから(怒った顔のマーク)』みたいな感じだ。あずさはもうすぐJKではなくなってしまうのに、そんな調子で大丈夫なのだろうかとどうでもいい心配がよぎってしまうが。
もしやあいつ、マネージャーさんにも似たような文面で送ってないだろうな?
時計を見てみるともう1時を回ったところだった。
東京駅までは少しかかるので急いで準備しないといけない。
必要最低限のものだけ持って家を出た。
時刻2時ジャスト。春下さんが東京駅の丸の内南口改札に現れた。
ちょうど2時というのがポイントだろう。
「こんにちは、凪城さん」
「あ、えっと、こんにちは」
行儀よく挨拶をされることに何故か照れて、目を逸らしながら返す。
それから彼女の様子を窺う。
長い丈のカーキのスカートの下には黒のタイツ。スラっと細い脚が少しだけ見えている。
そして上はコートにマフラー。どちらも明るい色で揃っているが、それをうまく着こなしている。さすがです。
まあただ変装の方には抜かりが無く、丸い茶色い縁のサングラスにマスク、さらにニット帽とめちゃくちゃ念入りである。肌がほぼほぼ露出していないと言っても過言ではなかった。
「じゃ、じゃあ行きますか」
「そうですね」
そう言って歩き出す。
駅の構内に入っていき、それから意味の分からないほど深く深く降りていく。
ということは、そう。我らがJR京葉線である。
ほんとなんでこんな深いんだ。よく分からないが何か千葉に恨みがあるのかもしれない。なお総武線はもはや東京駅の中にはない、らしい。使ったこともない。
そんなくだらないことは露ほどにも考えていないであろう春下さんが率先してエスカレーターを下りていくので付いていく。
俺はあまり東京駅に来ることがないので迷子になったら終わりだ。
「それにしても、バレンタインライブって幕張メッセなんですね」
沈黙に耐えかねた俺が確認の意味を込めて尋ねてみる。
すると春下さんは首肯してから説明を付け足す。
「代々の伝統みたいです。といっても数年前からですけど」
バレンタインライブはその名の通りに2月14日に行われる女性アーティストによるライブだった。
ちなみにその1か月後にはホワイトデーライブと言うのも行われるらしく、今度は男性アーティストがステージを埋め尽くすのだとか。
まさかバレンタインデーを提唱したお菓子会社もここまで大きなイベントになるとは思いもしなかっただろう。
まあこちらバレンタインチョコを貰ったことがない男子ぃにとってはありがたいイベントだが。
ちなみにバレンタインチョコを貰えないような男子は教室で点々としているタイプの人間なので、こういうライブに来ることはあまりないという説もある。
無駄なことを考えているとホームにたどり着く。
そのタイミングでちょうどよく電車がやって来たのですぐに乗り込む。
平日の昼間なので混んでいることもなく、俺たちは普通席の長く並んでいる席に二人並んで座っていた。
本当は隣に座るのは気まずかったので離れて座りたかったのだが、春下さんがわざと俺の場所を作るように場所を空けてくれてしまったので隣に失礼してしまうことになったのだ。
「あ、あの、そういえばなんですけど」
「なんですか?」
俺のわけのわからない日本語にツッコミを入れることもなく、素直に聞き返す春下さん。
「なんで下見に俺を誘ったんですか? というか、下見って直前にリハーサルかなんかでするのでは?」
聞いてみると、春下さんは俯いて答える。
「いえ、まあ、はい」
歯切れの悪い返事に疑問を覚えるものの、黙って待つと春下さんは続きを言ってくれた。
「今回の勝負って私が提案したじゃないですか」
話の内容は三日ほど前に決まった勝負の話になる。
今回の勝負、とはバレンタインライブで行われる勝負のことだ。
あれから詳細な勝負の内容が、一応関係者くらいのポジションにいる俺にも伝えられた。
内容はライブのトリ、つまり最後に6人で揃って俺が作った曲を歌う。
その曲というのは俺が前日までにユーチューブに載せるもので、多分俺が出来上がるのは前日になるだろうから実質彼女たちに練習時間はない。
彼女たちがどのように曲を解釈して、どれほど客を喜ばせ、会場を盛り上げるのか。
そこが勝負の争点になっている。
単純な歌の上手さやファンを盛り上げる力なら正直に言ってミアさんが一枚上手だが、俺との付き合いは一番短い。
だから曲をどう捉えるかによっては誰でも勝てるように決められた。
といっても6人全員でユニゾンで歌うので判定をするのは難しいということで、最終的な決着は俺が下すことになっている。
これがまたえらくプレッシャーなんだよなあ。
文句ないくらい誰か一人が凄ければ判定もしやすいが、この6人ならそうはならないだろう。
みんな各界のスーパースターだ。
「それで?」
「凪城さんにはちょっと厳しいスケジュールを強いてしまいましたから、一応曲が完成するまでのお手伝いはしようかと」
ちょっと厳しい、なんてものではないのだが……。
それでも彼女なりの責任の取り方ということなんだろう。
「多分あまり手がついていないのではないですか?」
「え、なぜそれを……」
俺の今の現状を当てられドキリとする。
「以前、作曲家の野崎さんに聞いたことがあります。作曲は始めが一番難しい、と」
「はぁ、あの人がねえ……」
以前一度だけ俺の家に来たことがある人だ。
結構な美人だったが、どこか大森教授に似たようなところがあるアラサーの人だ。もしかしたら未婚のアラサーは全員結婚に飢えているのかもしれない。
「それで、その時に『意外と外に出て刺激を与えると閃く』みたいなことをおっしゃっていましたから」
「なるほど。さすがベテラン」
そういえば以前に気分転換がてら銭湯に行ったときはすごくリフレッシュできた。
あの時は作曲のことすら頭から抜け落ちるくらいで曲を作るまでには至らなかったのだが(8割はミアさんのせい)、間違った方向性には見えない。
では何故それを自分で出来ていないかというと、迫る納期に焦っていたというシンプルな理由である。
〆切間近なのに外に出るなんていう発想が俺に無かった。
「そうだったんですか。いや、ほんとありがとうございます」
「い、いえ。そんなお礼を言われることでは……!」
いつもクールな春下さんが本気で照れたように両手を振って否定する。
どうやらお礼を言われるのはあまり好きではないらしい。
だがどうしてか、その態度は俺の嗜虐心をくすぐる。
「ほんとあのテレビとか携帯とかもめちゃくちゃありがたいですよ。ほんと春下さんにはどうお礼を言っていいか」
「いいですから! いいですから……やめてください‼」
春下さんの意外な一面を見つけたところで、お目当ての海浜幕張駅に到着した。
「おお」
今は特にイベントをやっていないようで人の波が出来ているということはないのだが、逆にそれが新鮮だった。
人がいない海浜幕張駅はとても開放的で、青空がいつもより広く見えた。
「じゃあ行きましょうか」
そこから幕張メッセイベントホールまでは意外と距離がある。
せかせかと歩いていくこと15分ほどでイベントホールに着いた。
そこを関係者入り口から入っていく。
警備員の人が不審げな顔で見てきたが、春下さんが身分証か何かを見せるとさらに不審がって、それから納得したような顔をしていた。
あの、俺春下さんの彼氏じゃないからね? ただの仕事だからね?
まず舞台裏に通される。
舞台裏は昼だけど暗いままで、それでいて特にイベントもないのに緊張感があった。
「春下さんはここでやったこともあるんですか?」
「一応ありますね。ここは動員数が他のところに大して比較的多いですから、あまり多くはないですけど」
たしかここの収容数は1万人弱だっただろう。なるほどたしかに武道館が1万5千人くらいだから、それに続くくらいだろうか。
ライブについてはあまり詳しくはないけど、それでも1万人も入るというのはそれだけで多く感じた。
「じゃあステージの方に行きましょうか」
「え、ステージにも上れるんですか?」
「許可は取りました」
なんかちょっと不安になる言い方だった。
え、本当に大丈夫なの。
なにやら違う緊張感が押し寄せてきたが、春下さんはずんずん進んでいく。
なんか学校で「そこから先は行っちゃだめだよ」って言われるところを行くみたいな緊張感だった。怒られないよね?
それでも進むと、やがてステージが見えた。
そこは壮観な景色だった。
一面開けていて、それでいて逆に全てがこちらに収束しているような。
そこに立っているだけで勝手に足が震えてきて、手から汗をかいてしまった。
――その手を春下さんが急に横から握ってきた。
「え?」
それはあまりにも自然な流れで。思わず俺は横を見てしまう。
「どうですか、この舞台は」
春下さんは俺の困惑を知ってかどうか、軽く握ってくる。
だが不思議なことに春下さんと手をつないでいるということに緊張をしていても、それは心地よいものだった。
それは右手に握られている手が思ったよりも小さく頼りなかったからかもしれない。小刻みに震えていたからかもしれない。
「緊張してる……んですか?」
質問に質問で返す。
春下さんも緊張しているように、少なくとも俺からは見えた。
「……はぁ。まあ、緊張はしてますけど」
すると春下さんはつまらなさそうな顔で遠くを見る。
いつの間にかマスクもサングラスも外していた。
「というかもしかして、私みたいなのは舞台慣れしていて緊張しないと思ってましたか?」
「ええ、まあ」
「そんなわけないじゃないですか」
俺の反応を予想していたのか、俺が言い終わる前に返す。
「前日は眠れないですし、始まる前なんかは吐きそうなくらい緊張します」
それはライブ当日の話でよく考えれば今緊張している理由とは直接的に結びつかなかい。ライブのことを思いだしているのだろうち勝手に解釈して春下さんの話を遮らないようにする。
それから彼女は赤裸々に語る。
「だって1万人ですからね。1万人に見られるんですよ。当然失敗したら1万人が目撃するわけですし、だから失敗は出来ない」
1万人の前で失敗をする。それがどれほどのものなのか。
俺には想像もつかなかった。
「でも……だんだん会場と一体になっていく。それがすごく気持ちが良いんです」
春下さんが思い出すように語る。目を閉じた横顔に、こんなにまつ毛が長かったのかと思わず場違いな感想が出てくる。
ちょっと口角が上がっていて、笑っているようにも歌っているようにも見えた。
「ねえ、凪城さん?」
その眼が急に見開かれて俺の方を向くものだから焦る。
透明感のある瞳には俺の姿が克明に映し出されていた。
春下さんは楽しそうに手を強く握りしめ、それで俺をステージの前に導く。
「いつか、そんな経験を。一緒にしてみませんか?」
その言葉は強烈でいて和やかに、舞台に二人で立ってライブをしている姿を幻想的に思い描かせた。
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