第69話 煩悩退散、煩悩退散
シャー。ガチャガチャ。キィ。キュッ、キュッ。シャー。
……おかしい。
この部屋からお風呂場までは厚い壁で隔てられていて、さらに俺は耳にヘッドホンをしてさらに壁を作っているというのに。
どうしてだろう、お風呂でのシャワー音やそれに伴う金属音がこうもありありと俺の耳に届いてしまうのは。
たぶんお偉いさんが名前を付けているはずだ。なんたって男子共通の悩みだからな!
何故だか知らないが女性の入浴音だけやたら鮮明に聞こえる病気。ってそんなマニアックな病気あるわけねえだろ!
セルフツッコミを決めつつ、それでも頭に浮かんでくる煩悩をハエ叩きの要領で一つずつ潰していく。
――まあどういうことかといえば、端的に言ってミアさんがお風呂にいることを、俺は異常なまでに意識しているということだ。
いやだってしょうがないだろ。俺の家のお風呂を、あの美貌を持つミアさんが使いなさっているということだぞ。
間違いなく彼女が素足で踏んだところは浄化されていくだろうし、彼女の入ったお風呂の残り湯はいい匂いがする。発想が気持ち悪いな、俺。
「はぁ……、どうしてこんなことに……」
発端は俺がお風呂から出てきた後のことだった。
当然ミアさんは泊まりに来るつもりで来ていたのだというのだからお風呂に入ってそれ相応の準備をしてから来たのだと思っていた。
だからお風呂の栓を抜いたし、彼女に俺のベッドを使ってもらって俺はソファで寝ればいいなというところまでシミュレーションをしていた。
だが、俺がお風呂に出るなり彼女が言ったのは。
「ワタシもお風呂入るからね~」
というのびのびと発せられた言葉だった。
「え、お風呂……?」
「うん。ワタシもこたつで汗かいちゃったから」
「……近くに銭湯ありますが」
「……足が痛いって言ったよね?」
そう言って出された素肌の足はただただ綺麗でなまめかしさすら感じるレベルだった。
全く腫れている形跡もなし。
だが、どうにも色っぽくドキリとしていた自分がいたので、彼女に対する罪悪感を洗い流すためにもお風呂に入れることにしたのだった。
そして今に至るというわけである。
シャワーの音を聞いて、ふとミアさんが自分の体を洗う姿を想像する。
あのブロンドの髪から滴る水の雫が真っ白な首から重力に従って緩やかに落ちていく。
豊満な双丘の片方を登っていき頂上から落下。
しなやかな肢体をゆっくりと落ちて、足の爪に吸収される。
「……何考えてんだ俺……」
ただの変態だった。紛うことなき変態であった。
これ以上お風呂の音を聞くのはまずいと思い、ヘッドホンから爆音のロックを流す。
耳がガンガンするが、なんとか煩悩からは無関係の境地にたどり着くことが出来た。
爆音を聞きながら音楽を作るのは難しいので諦めて椅子の上で瞑想していると、お風呂から出てきたミアさんが部屋に入ってきた。
「リン? シャワーありがとうね」
彼女が着ているのは俺が普段、家着で使っている半袖半ズボン。
俺の方がミアさんより少しばかり身長が高いので丁度良いかと思われたが、はっきりとした胸の存在主張によってむしろ少しきついくらいだ。
「ほんと、なんで泊まるつもりだったのに服持ってこないんすか……」
「下着があれば十分かなって? ほら、服はリンに借りればいいしさ」
俺の服を着た自分の見た目を確認するように、ミアさんはその場で腕を広げて一回転。
「どうですか? もしサイズが合わないならパーカーでも貸しますけど」
「♪ 別にそんなのいらない~♪」
なんだかご満悦なご様子で鏡に映る自分の姿を見てステップを踏んでいた。
サイズの方は大丈夫みたいだったようでひとまず安心。
「ん? リンは何をやってたの?」
とそこで、ミアさんは俺の格好を不思議に思ったようで尋ねてきた。
ミアさんに指摘され自分の姿を確認する。
耳にはヘッドホン、ディスプレイに広がっているのは英語で書かれた論文。
「あ、いや、これはまあ、少し煩悩を……」
「ボンノウ?」
「な、なんでもないです!」
良かった。煩悩という単語を知らなくて良かった。
危うく、俺がミアさんの入浴シーンを想像して出た煩悩を一生懸命薙ぎ払っていることに気付かれるところだった。
ミアさんはあどけない顔で頭の上にクエスチョンマークを浮かべていたが、すぐに興味が別のことに移る。
「あ、これがリンが普段曲を作るときに使ってるパソコンね! 見せて」
それから彼女は俺の椅子に半分覆いかぶさるように接近して、パソコンの画面に顔を近づける。
その折、彼女からふわっとした甘い香りが漂ってきて、追い払っていたはずの煩悩が再集結する。
なんでこんないいにおいするんだ⁉ 俺と同じシャンプー使ったはずだよな‼⁉
近くで見ても枝毛ひとつなく、天の川のようにさらさらと輝きながら流れ落ちている金色の髪。
思わず手で梳いてみたくなるほどのものだった。
「わー、すごい、没にしたものまで残ってるのね!」
そんな悶絶している俺に構うことなく、ミアさんはパソコンの方に夢中だった。
こういう天然で男を殺しに来るタイプは、やはり一番の脅威だ。さすがに理性保てよ、俺?
「ちょっとマウス貸して!」
「ええぇえ‼⁉」
今度はさらに乗り出してくるミアさん。
ああ、腕に柔らかい感触が伝わってきてしまうって、え、もしかして上の下着着けてない⁉
いや、あの例のヤツでどれだけ感触が変わるかは分からないんだけど、とにかく今俺の腕に当たっているものは天然もののそれだった。
これはダメなやつだ……。
「ちょっとミアさん、さすがに……」
「うん?」
俺の言葉に反応して振り返ると、すぐそこに彼女の顔があった。
こんな近くにあってもしみひとつなく綺麗だと思う、その丹精込めて神様が作ったと思われる顔。
それから視線が目の位置からだんだん下に下がっていき、そこにあったのはみずみずしい桜色の唇。
二人の距離は限りなく近く、そのまま俺の心が吸い寄せられていきそうになって……。
「……あッ‼」
ようやく今の状態に気が付いたのか、ミアさんがパッと顔を離した。
「あの、その、違くて……。わ、わざととかじゃなくて」
「わかってます、わかってます」
「リンが作ってきたものがそこにあるって思ったら、つい興奮しちゃって……」
「わかってます、わかってますから」
頬を上気させ耳まで真っ赤に染まるミアさん。
もともと肌が白いのも相まって、その変化は顕著だった。
「いったん、落ち着きましょう」
「そ、そうね……」
急速に高まってしまったこの部屋の温度を下げるため、一度外に出て飲み物を注ぎに行く。
時刻はもう夜の1時を回っているということで、お互いに気分が紅潮しているのかもしれない。
「はぁ……危なかった……」
危なかったと言いながら期待してしまっていたような気がする。
そうなってもいいと、あの瞬間思ってしまっていた。
相手が美少女だからって、誰でも手を出そうとするのか、俺は……。
自分の節操のなさに悲しみを覚え、なおかつ冷却時間ということもあって長めに時間を取ってから部屋に戻ると、既にミアさんは俺のベッドに入って寝てしまっていた。
「もう寝ちゃったのか」
あれだけ俺が意識していたのも嘘だったかのように、ミアさんは気持ちを切り替えてしまったらしい。
ベッドの上に毛布で何重にもくるまっていて一つの山になっていた。その姿はまるでミノムシみたいだった。
「疲れてたんだろうな」
部屋の電気を消して、聞こえてないだろうけどおやすみとだけ言って俺も部屋を後にした。
彼女の髪に隠れてミアさんの耳がまだ赤いままだったことには、当然のことだが気付かなかった。
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