第65話 サウナ①
2月に入って二回目の土曜。
この日は気分転換に銭湯へ向かっていた。
というのも、ずっと家で次に作る曲についてメロディーを練っていたところ、どうにもアイデアが出てこなくなったのだ。
今まではこういった時、何もせずにただアイデアが溢れてくるのを待っていたが、作曲家になる決意をした今そんな悠長なことも言ってられなかった。
仕事としてやっていくなら〆切はできるわけで、そんな受け身的な行動ではうっかりデッドラインを越えてしまうことになるかもしれない。
だから行き詰った時に無理やりでも解決する方法を模索しておく必要があるのだ。
というわけで銭湯。
最低限の着替えとお金を持って近くにある銭湯へ向かう。
夜の11時を回ったところで、もう既に周囲は真っ暗だ。
俺は夜に外出するという生き方をしてこなかったので、ちょっと新鮮だ。
「なんか解放的な気分になるな」
マンションが立ち並ぶ道を抜けると、まだ飲食店が明かりを煌々とつけて営業をしていた。
このあたりはファミリーレストランやらチェーン店の居酒屋が所狭しと並んでおり、夜でも暗くて迷子になることもない。
次はこういうところで缶詰しているのも悪くないかもしれない。歌詞とかならこういったところでも考えられそうだ。
慣れない夜の街に高揚感が沸き立つ。
どこか非現実的で、なんだか知らない街に来ているみたいだった。
「ふん、ふん、ふふふ~ん」
そんなに興奮していて鼻歌を歌っていたからだろうか。
背後から俺の後を付けている一人の女性に、俺は気付くことが出来なかった。
銭湯に着くと、受付のところには30代くらいの男の人が立っていた。
「はい、え、ええと……。わ、分かりました」
なにやら電話をしていたが、僕が入ってくるのを認識すると笑顔で会釈をしてくれた。
それでも会話は途切れず客と電話越しに接待しているというのだから、器用なものだ。
さすがに勝手に
「すみません、お待たせしました」
受付の男の人がカウンターから声をかけてくれた。
「初めてのご利用ですね?」
「え、まあ、はい」
来た客の顔をすべて覚えているのか、断定するような口調で確認をする。
そして初来客の人間だと確認するや否や、受付の人は汗を拭きながらつらつらとマニュアル通りに進めていく。
「貴重品の管理は、脱衣場のところにあるロッカーをお使いください。鍵の方は自己管理でお願いいたします」
「あ、はい」
「あ、あと、サウナや酸素カプセルの方もございますので、ご自由にお使い下さい。酸素カプセルは別料金を頂くことになりますが。サウナは無料ですので、絶対に使用していてくださいね」
「は、はい……」
「あ、もう一つ、すみません。お風呂上りは当店で販売しているフルーツ牛乳をお飲みください。初回ということでサービスをしますので」
「へ、はぁ」
「それでは、ごゆっくり」
店員さんは言いたいことを全て言い終えたのか、料金の支払いが終わると奥の方へ引っ込んでしまった。
鍵を渡された俺は一人ぽかんと。
「……まあ、いっか」
なんだか店員さんが胸をなでおろしていたように見えたけど、別に大したことじゃないな。
うんうん。
とりあえず男湯の方へ向かった。
銭湯内はとてもきれいな白色のタイルが敷き詰められていて、ともすれば滑って転びそうな位だった。
ざばーんとお風呂に飛び込みたい衝動を抑えて、頭と体を洗う。
シャンプーなんかも、多分俺の家にあるやつよりいいやつなんだろう。容器が違う。
英語なのかもよくわからない文字が書いてあったが、匂いはバラのような香りがした。
頭をワシワシと洗い、体をごしごしと洗って、まずはお風呂に入ってみた。
「ぷはー」
おっさんのような声を出しながら、お湯につかる。
お風呂の方は別に温泉でもないからなんら家と変わらないお湯だ。しいて言うなら少し温度が高い。
それでも、新鮮な感じがした。
初めての経験に、また人生はこんなにも自由だったのかと何故か深い気付きを得た。
まだ親離れを真の意味で出来ていなかったのか、こういったことが一人で出来るなんてことを知らなかった。
すでにこれだけでもかなり気分転換になったし、インスピレーションを受けたように思う。
まあ、正直に言って今まで音楽のことを忘れていたくらいだ。
浴場の内装の方は特にこだわりもないようで、富士山の絵がべたに描かれているわけでもなければ殺風景と言ってしまっていい。
多分何度か来てしまえば新鮮味も薄れてしまうのだろうが、今はこれでも十分に楽しかった。
「そういえば、人が全然いないな」
浴場を観察していたところで、ふと気づいた。
はじめの方は人がいたが、10分もすれば俺以外に誰も人影が見当たらなかった。
シャワーの音もしなければ、桶が床に落ちて響く音も当たり前だがしない。
「まあ、別に長居をするような場所でもないか」
お湯は比較的温度が高く設定されているから、そんなに長くお湯につかっていることはできない。
たしかに俺ものぼせそうだ。
そろそろ、出てしまった方が良いだろう。
お湯から出て、持ち込み用の手ぬぐいで全身の水気を拭きとる。
そして扉を開けようとしたのだが……。
「ん? 開かない?」
立て付けが悪いのか、扉が上手くあかない。
手ぬぐいを近くに置いて両手で引っ張ってみたが、ダメだった。
もしかしたら、誰かがうっかり鍵でもかけてしまったのかもしれない。
「まあいっか、どうせまた誰か来たら気付いてくれるだろ」
そこで、そういえばまだお目当てのサウナに行ってなかったことを思いだす。
店主の人も『絶対に行くように』と念押ししていたし、いかないと申し訳ない。
体もだいぶまた冷めてきたところだし、ちょうどいい具合だ。
入り口のそばにある見取り図に従って進む。サウナは体を洗うところの奥にあった。
入り口の扉には熱中症や脱水症状の注意書きが書かれている。
「おお、すげえな」
中は浴場とはうってかわって木造。
木が何本も何本も重なって、密閉空間を作り出している。
「こりゃいいところだな……」
簡素な浴場の作りは、もしかしたらここにこだわりがあったからかもしれない。
そう思わせるほどによくできていて、落ち着く雰囲気があった。
店主が推す理由も分かる。
扉を閉めて、一回深呼吸をした。
閉めたとたんに中の湿度の高さを感じる。
もわっとした空気がたまらなく暑い。ちょっと不快なくらいだ。
「あち、あちちちちち」
入り口から入って正面にドカンと座ろうとする。
座るところにはタオルが敷かれていたが、うっかりふくらはぎの部分が木と触れ合って熱い。
なんか火傷しそうだった。
「ふ、ふううう」
誰もいないサウナで一人、腕を組んで耐える。
これは精神修行かもしれない、そう思いながら必死に汗をかくのを待つ。
僕は汗っかきではないせいか発汗が遅く、5分くらいしてようやく汗が額に流れるようになった。
「あっちぃ」
当然ながら暑いわけだが、まだ外へ出ても開放感を得られるほど粘ってない。
もう10分は頑張ろう。
手ぬぐいを腰にかけ、もう一度気合を入れ直した、その時だった。
「ハーイ♪」
サウナの中に、いるはずもない金髪の女性を幻視したのだ。
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