第52話 卒業
「はあ、面白かったね!」
「そうですね、たしかにあのシーンは特に……」
映画を見終わった雫は大きく手ごたえを感じていた。
雫としては途中から映画に夢中になっていたから不思議なことだったが、劇場を出てから凛がどこか吹っ切れたような爽やかな顔をしていた。
それこそ、思わず拍子抜けしてしまうくらい。
「じゃあ凪城くん、この後どうする?」
「この後、ですか……」
雫のプランとしてはこのままレストランに行って、告白する予定だった。
自分の思いを正直に告げて、凛の立ち上がるきっかけになれればいいとそう思っていた。
でも、既に凛は自分で立ち直ってしまった。
少なくとも雫にはそう見えた。
もう心配はない、と。
だから、この後にどうすればいいのか、むしろどうもしなくていいのではないかと考えていた。
下手に何かをするくらいなら、自分で立ち直れた今の方が良いと。
だから思うのはひとつだけ。
もうちょっと二人だけの時間を楽しみたい。
ただ、もう帰りましょうかと言われることだけが怖かった。
「そ、そうだ、この近くにいいレストラン知ってるの。行かない?」
「レストランですか? ううむ……」
俯いて悩む素振りを見せる凛。
正直言って、自分と一緒に居るのに飽きて帰りたいと思っているのかと気が気ではなかった。
「ほんとおいしいから!」
「まあ、そうなんでしょうけど……」
なんとか引き留めようとする雫。
ちょっと重い女みたいで、でもそれだけ自分が凛のことを好きだと思ったら嬉しかった。
(大丈夫、ちゃんと私は凪城くんのことが好きなんだ)
琴葉に言い返したとき、正直自信がなかった。
というのも、凪城凛と風城冷を区別して考えたことが無かったため、自分が誰に恋をしているのか分からなかったのだ。
でも今ならはっきりわかる。
純粋に凛といるのが楽しい、そう感じるからだ。
曲も詞も、歌も要らない。彼が隣にいることが、それだけで楽しかった。
「ね、いこ?」
「ううん……」
だけど、やはり凛は乗り気ではない。
これ以上引き留めると逆に凛に嫌われてしまうかもしれない、そう思ったら今日はこの辺で退散しようかとも思った。
その時、凛は恥ずかしそうに財布を取り出して、言い訳をする。
「すみません……あんまりお金がなくて……」
「あ、ああ」
それは気が回らなかった。
たしかにあれほど質素なマンションで生活しているのも、お金を少しでも節約しようという気持ちの表れだと気付くべきだった。
「い、いいよいいよ、私がはらうか」
「あんまりお金が無くて、割り勘になってしまうと思います……!」
「え?」
思わぬ凛のセリフに雫は思考が止まる。
それから、少し間があって、雫は噴き出した。
「ふふっ、え、何それっ」
「何それってなんです! 男の沽券にかかわる問題ですよ⁉」
「そんなどうでもいいことで?」
「どうでもよくないんですよ!」
笑われて恥ずかしいのか、一段と声が大きくなる凛。
でも、雫はそんなことを気にしたことはなかった。
「というか、私しっかり稼いでるんだけど? 料理代をケチるような人間だと思ってたの?」
「それは関係ないですよ! 男は女性に払うものなんです!」
割と古風な考えだと雫は思った。
男女平等が歌われる世の中に、これほど頑固な考えを持っている人間は多数派ではないだろう。
「というか、年下におごられるの嫌なんだけど」
「我慢してくださいよっ! 雫さんって結構頑固ですよね!」
「君がそれを言うか」
というか先ほど奢れないと言っていたではないか。
ないお金を捻出してまで譲れないことなのだろうか。
「ふっ、ふふふふ」
「なんです……?」
また思い出したように笑いだす雫に、凛は訝しがる。
「いやいや、楽しいなと思って」
「こっちは沽券の問題なんですけど……」
「よしわかったよ、凪城くん」
ひとしきり笑った雫は、妙案があるというように人差し指を立てた。
「そこまで奢りたいというのなら、サイゼに行こう」
「サイゼ……?」
突発的な提案に、凛の頭には疑問符が浮かんでいた。
「まじでサイゼですか……」
「まじでサイゼです」
俺と雫さんはサイゼに来ていた。
あの安いことで有名なサイゼだ。
「サイゼという名前の、高級レストランかと思いましたよ」
「ふむ、いい発想だ」
ずいぶんこのデートで雫さんとも話しやすくなった。
特に、あちらはかなり砕けた言葉遣いになっている。
「でもまさか雫さんとサイゼに来る日がやってくるとは」
「失礼な。私でもサイゼはよく来る」
「ほんとですか?」
それはびっくりな話だ。
そのことを知っていれば、オタクは一日の20時間ほどをサイゼで過ごすだろう。
「凪城くんはよく来るの?」
「まあそうですね、やっぱり安いですから。特にここ最近は……」
最近は料理を作る気力も起きなくて、適当にコンビニのおにぎりや外食で済ませていた。
外食と言っても、節約するためにはここくらいしか来るところはなかったが。
「――凪城くん、昨日よりずいぶん元気になったね」
ここ数日の生活を回想していると、突然雫さんからそんなことを言ってきた。
元気になった、か。
それは少し違うような気がする。
元気になったと言うといかにもモチベーションと取り戻したような解釈をしてしまうが、俺はいま特にモチベーションがない。何に対しても。
ただ、開き直っただけだ。
どうせ普通の生活になるのなら、せめて上に行く人たちの邪魔をしないようにしようと、そう決めただけだ。
「まあ、そうですね」
ただ、あえて否定するつもりもない。
あえて否定すれば、また雫さんに心配をかけて無駄に気を遣わせてしまうかもしれないからだ。
「そっか」
そして、多分そういう考えもすべて見抜いたうえで、雫さんは返事をしているように見えた。
「曲は作らないの?」
それから、努めて自然な感じで聞いてくる。
「あ、もちろん、私はどっちでもいいと思ってるよ? ただ純粋に気になっただけで」
だからそういう補足も付いてくる。
「そうですね……」
悩んでいるふりをしながら時間を置くが、実のところ自分の中で答えは出ていた。
「たぶん……作らないと思います」
ちょっと言いにくかったが、それでも伝える。
自分を変に飾ってありのままをさらけ出してしまっては、雫さんに良くないと考えた。
俺はこういう価値のない男だということを、きちんと言わなければいけないと思った。
「そっか……」
窓の外を見ながら、神妙に呟く雫さん。
そこに含まれる感情については俺にもよく分からなかった。
悲しんでいるのか、それとも別の感情があるのか。
失望じゃないといいな、と無責任に思う。
だけど、雫さんは正直に胸の内を吐露してくれた。
「正直に言うとね、ちょっとがっかりした」
がっかり、という言葉に胸がぎしっと軋む。
「やっぱり凪城くんの曲は好きだったし、始めに凪城くんのことを知ったのは歌からだったから」
複雑な気持ちになる。
喜んでいいのか、哀しんでいいのか分からなかった。
雫さんの次の言葉を待つ。
「実はね、私が歌を歌おうと思ったきっかけは、風城冷だったの」
「えっ?」
急に出てきたそんな話に、思わず聞き返していた。
暴露をした本人はしてやったりという顔をしていたが。
「知らなかったでしょ」
「いや、もう、もちろん」
「誰にも言ってなかったからね」
楽しそうに話す雫さん。
多分、俺の驚き様に満足しているのだろう。
「だから、やっぱり風城冷をなかったことにはできないし、風城冷に何も思っていないと言えばウソになっちゃうんだよね」
「……」
申し訳なさそうな口調の雫さん。
言葉に反して切れ味が悪くなっていき、しぼんでいく。
「でも、でも……ね?」
雫さんは顔を上げて、汲んできた水を飲み干して、深呼吸。
そこから、なだれ込むように言ったのだった。
「もう私は風城冷から卒業します!」
謎の卒業宣言。そして、そこから一つ。思いがけない提案。
「だから最後に、私のために曲を作ってください!」
――こうして作られた曲が、風城冷の最後の曲になったことを、この時は誰も知らない。
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