第39話 波乱の幕開け

 11月も半ばになり、大学が始まって一か月も経っていたころ。


 その日、事件は起きた。


 たしか、もうかなり冷え込んできた日本で、そろそろ手袋がいるなぁとか思いながら大学に登校してきた日だったと思う。

 いや、いきなり舞台がアメリカになることなんてよっぽどのイレギュラー(琴葉)がない限り起こらないんだけど。


 まあ、事件というのには特に前触れもなければ兆候もなく、かといってどこから事件でどこから事件でないのかも分からないような、あっさりとしたものだった。


「ふぃ~、さみ~」


 朝に感じた寒さを甘く見ていた俺は、かじかんだ手を息で溶かしながら歩いて講堂に向かっていた。


 いつものように授業を受け、お昼ご飯を食堂で食べ、そしてまた授業を受ける。

 いつものルーティーンで過ごすいつもながらの日常。


 その日常は、俺がいつも大森先生の授業を受けている経済学部棟の前で儚くも崩れ去った。


 建物に入る前の扉の所に、大学生にしてはひときわ目立つ美少女がそこに立っていたからだ。


 あまりにもこの場にはそぐわないほどの容姿。だが、俺はその人間の名前を知っていた。


 ――水野雫。


 2か月ほど前に俺も握手会に参加したことのある、今が旬の売れっ子声優だ。


 今が旬、といいつつもこの「今」がどのくらいの期間を示すのか分からないほど、その人気が衰える様子もない。


 そんな売れっ子の中の売れっ子の声優が、そこに立っていたのだ。


 もう既にある程度の人だかりが出来ていて大学の生徒が彼女の様子を窺っているが、彼女に話しかけようとする人はおらず周りには少しばかりの空間があった。

 だからこそ、目立っていたのだ。


 さて、そんな俺でさえ知っているような超人気声優が、だ。


 あろうことか――こちらの存在に気付くと、手を振ってきたのだ。


「⁉」


 慌てて後ろを振り返る。だが俺の周りにはだれもいない。


「ねー、あなただって!」


 おろおろとしている俺に、彼女は詰め寄ってくる。

 自然、周りの目も彼女と同時に俺に寄せられる。


「え、僕ですか⁉」

「そ、あなた」


 やばい、考えがまとまらない。


 なぜ雫さんが大学に? なぜ雫さんが俺に?


 考えようとしても、動揺が邪魔をしてまともな考えにならない。


「ねえ、凪城くん?」

「は、はいっ⁉」


 急に名前を呼ばれて、思わず声が裏返ってしまう。恥ずかしい。


「ふふっ」


 雫さんはと言えば、余裕たっぷりに笑って動揺した俺を楽しんでみているようだ。

 たぶんどっきり大成功みたいな感覚なのだろう。


「うーん」


 そして、雫さんは小首をかしげると、また口角を吊り上げる。


「な、なんですか」


 何か嫌な予感が走ったので、先んじて聞いておく。


「ねーえ、凪城くん? 凪城くんってさあ……」


 ふっと急接近して、耳元ふっと囁く。


「――風城冷なんでしょ?」


 そしてその言葉に、俺の頭は真っ白になってしまった。




「ええと、まずは、すみません」

「いーのいーの、私が急に押しかけちゃっただけだから!」


 結局あの衝撃的な邂逅のあと、俺は授業があるのを思い出して急いで教室に向かった。


 その間、雫さんには話があるからと待ってもらっていたのだ。


「で、話ってなんなのかなー? 告白だったらオーケーよ?」

「告白は先ほど雫さんにとてつもない威力のものをされたんですが……」

「はっはっはー!」


 なんか雫さんはどこか無邪気で子供っぽい。いや悪い意味じゃなくて。でも握手会の時とは印象が変わった。


「そ、それで本題なんですが……」

「んー?」

「なんで僕が風城冷だって……」

「あー」


 今はちなみに喫茶店に来ているが、彼女はパフェを長いスプーンでつっつきながら聞いている。


 そんな軽い話じゃないんですけど! 俺にとっては死活問題なんですけど!


「マネージャーに調べてもらったらねー、苦労したけど見つかったよー」

「なんで⁉」

「まあねえ、君があの風城先生だって分かってるようなもんだったからねー。あとは裏を取るだけだったからねー」

「なんでわかったし!」

「そして、君の家にあの有名な白川琴葉が入っていくんだもんなあ。確信でしょ」

「それは確信だ!」


 悪かったのは僕でした。セキュリティが甘かった。


「まあ、白川さんの方はちゃんと目立たないように来てたみたいだけど、こっちは凪城くんの家を張ってるからねー。分かっちゃうよねー」


 分かっちゃうなあ。ごめん、琴葉。


「そ、それで、雫さんが僕に何の用ですか……」


 なんだろう、脅迫とかされてしまうんだろうか。どれくらいお金を払えば許してくれるんだろうか。


「んー」


 ドキドキしながら彼女の返事を待つ。焦らされているような気分になるが気のせいだろう。


 彼女はゆっくりと口を開く。


「特に何かしに来たわけじゃないんだけどなー。まあ用事と言うなら、本物かどうか確認しに来たくらい?」

「そ、そうなんですか」


 とりあえず一安心。雫さんも悪い人ではなさそうだし、穏便に黙っててもらえるだけで済みそうだ。


「まあこっちも色々と考えてきてはいたんだけど、大学の方が忙しそうだからやめとくよ」

「なんだか分かりませんが、ありがとうございます」

「あ、でも、そうだな」


 と、一息つこうと思ったその瞬間、雫さんが閃いたようにこっちを見る。


「私のことは、これから『雫』と呼び捨てにしなさい!」


 さてさて、大学生活波乱の時代。スタートである。

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