第2話 家に帰ってくると……

 大学の講義を終えた俺は、すぐに家に帰った。


 あれから春下鈴音はるしたすずねの音楽に夢中になって聞き惚れていたら、肝心なことを忘れていたことに気が付いたのだった。


「返事の連絡、忘れてたッ!」


 アホと罵ってくれても構わないし、阿呆と罵ってくれても構わない。ちなみに個人的には後者の方がダメージが大きい。


 そんなことはどうでもよくて。


 急がなければあちらの方から諦めの連絡が来てしまうかもしれない。せっかくのチャンスを逃すわけにはいかない。


 ただ無駄に俺の家は都心にあり、そのさらに無駄なことに大学は新宿から30分以上電車を乗り継がなければいけない場所にあるので帰るのに時間がかかる。


 冷静に考えればあちらから辞退するなんてことはありえないのだが、この時の俺は意味不明な焦燥感しょうそうかんに駆られていた。


 駅から走って自分のマンションに行き、鍵穴に鍵を通す。


 だが、焦っているのかどうにも開かない。


 いや、違う。


 ――もう開いている。


 しかしだからと言って、別に泥棒を疑ったりはしない。


「おい琴葉ことはァ! 勝手にウチに入んな! それと鍵はかけとけ!」

「あらー、ごめーん。凛くーん」


 まったく悪びれていない声で、男の性欲をくすぐるような何か艶めかしさまで感じる声色で返事をしたのは白川しらかわ琴葉。


 以前に楽曲提供をしたことがある人間だ。


 24歳にしてこの世の男性を魅了し続ける女性で、恋愛経験などない俺なんかは秒でやられてしまう。


 今だって耳に溶けるような声と遠くからでもちらと見える脚に興奮を覚えて理性が削られている。


「ったく、勝手に忍び込みやがって」

「いいじゃないー、せっかく休みを少しもらえたんだから」

「男の家に出入りとか、スキャンダルになるんじゃないのか?」

「凛くんになにかされちゃったら、なるかもねー? 妊娠、とか? いやーん、凛くんえっち」

「ま、まだ何もしてないだろ!」

「いつでも待ってるからねー」


 この年下を馬鹿にするような扱い方。さしずめ弟くらいに思われているのだろう。


「というか、ここのマンションの一室を借りてるのは私なのよー? 家主の出入りくらい自由でしょー?」

「そ、それに関しては、大変助かっているというかなんというか」

「本当はもっといいマンションにしてもよかったのにー。凛くんが頑なに『家賃は5万以下で』なんて言うからー」

「20万で3LDKとか持てあますわ! 普通の大学生の金銭感覚を壊すな!」


 一人暮らしをするって言ったときに援助をしてくれたのは琴葉だった。


 親に反対され、未成年だった俺はどうしようもなかったが、そこに手を差し伸べてくれたのが琴葉。


 女優である琴葉にお金のことを含めて色々とお世話になってしまったので、正直感謝してもしきれないくらいだ。


「まあ凛くんが普通の大学生かどうかは置いとくとしても、お金は別に払わなくてもいいのよー? その代わり、か・ら・だ、で払ってくれれば」

「お、お金はちゃんと社会人になったら返すからっ! ひとまず待っててくれ!」

「あははー、やっぱ凛くんかわいー。うちに住む?」

「住まない!」


 強烈な誘惑だった。あとで死ぬほど後悔した。


 ――って、そんなことより。


「少しやらなきゃいけないことがあるから、そこらへんで適当にくつろいでくれ。それまではすまんが何ももてなすこともできん」

「あっらー。やっぱ凛くん、紳士ね」

「何が?」

「まあいいか」


 そんなことより、とこっちのパソコンを覗いてくる。


 ああ、近い。いい匂い。やばい、理性。


「そういうところはお子様なのだけど」

「うっ」


 見透かされていた。


「それより、それはもしかして」

「ああ、この人に今日出した曲をお願いしようかと」

「ふーん」


 そこで猛烈に不機嫌になる琴葉。


「私じゃないんだ?」

「えーと、あの」

「私じゃ、ないんだ?」


 不服な態度。適当な返事は絶対に許されない雰囲気。


 曲のこととなると熱くなるタイプだ、琴葉は。本当に女優かよ。


 あれこれと御託を並べてみるが、どうにも取り繕った言い訳では納得してくれそうにないので、こちらも正直に話す。


「聞いてくれ、琴葉。この曲はお前にはふさわしくない。それは琴葉の力不足なんかじゃなくて、この曲じゃ琴葉が出せないって意味だ。お前にお願いする曲は、お前のためだけに作りたい」


 真剣な表情で、真っすぐに琴葉を見ながら答える。


 ありのままの気持ちをぶつけてみたが、反応は……?


「ふ、ふーん。わ、私のためだけに、ね。い、いいわ、納得してあげる」


 なぜか微妙に視線を逸らし上からの態度で言ってくる琴葉。


 気持ち顔が紅潮してるようにも見えるが、しかしこれはオタク特有の自己解釈。


 俺のような、いかつい顔で爽やかとは無縁の男にはそういう話は関係ないのだ。まったく期待するだけ損である。


「そういうわけで、よろしく頼む」

「ええ、今回だけよ、今回だけなんだから! 次は私のも」

「はいはい」


 苦笑いしながら春下鈴音にオファーの連絡をした。


 返信を待っている間に、琴葉には女性にオファーしたことがバレて絞め上げられたが。

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