朝、教室に入ると、教卓の上に数学のノートが山積みにされていた。ノートの一番上に、『三限目の授業の時までに配ってください。山中』と書かれたふせんが貼ってある。


 ぼくはノートを片腕に抱えて、みんなに配りだした。


 別に、ホームルーム委員だから、いい子ぶってこんなことをしているわけじゃない。ぼくは昔から、誰もやらない仕事を、進んでやってしまう傾向けいこうがある。ひとのために、そうやって無償で占いを提供する天谷の精神が、ばあちゃんの教えが、たぶん、ぼくに「やらなきゃ」っていう強迫観念を植え付けてるんだ。心底ぞっとするけど、ぼくは従うしかない。


 ノートの存在に気がついているはずなのに、見て見ぬふりをしていたみんなは、ぼくがノートを渡すと「ああ」とか「おお」とかいうだけで、お礼はほとんど言ってこない。

 こういう反応も、慣れたものだ。


 そのとき、背後から明るい声がかかった。


「おはよう、天谷くん」


 大塚さんが満面の笑みで、ぼくを見上げてる。

 あれ、と思った。

 大塚さんって、こんなに小さかったっけ。

 ぼくはこのときはじめて、彼女とまともに向かい合ったんだ。手を伸ばせば、届く距離で。


「おは、よう」


 言ってから、内心で舌打ちする。声が裏返ってしまった。かっこ悪い。


 大塚さんは微笑んでから、ぼくが持つノートの束に手をかけた。


「手伝うよ」


「いいよ!」


 思いのほか強い声が出て、慌ててトーンを落とす。


「悪いから……」


 大塚さんから視線をそらし、もじもじ。

 これじゃぼく、挙動不審の変質者みたいだ。


「貸して」


 落ち込むぼくの手が緩んだすきに、大塚さんはノートの束を半分奪っていく。


「二人でやったほうが早いでしょ。それに、私たち、ホームルーム委員じゃん」


 ノートを配るのも、ホームルーム委員の仕事。ぼくを一言で納得させて、大塚さんがノートを配りだす。「お礼言いなさいよー」と明るい声が言えば、「悪い」とか、「ごめん」とかのあとに、「サンキュ」とか「あざす」とかちょっと照れたような声が返ってくる。


 さすがだ。


 大塚さんが教室にいると、その場がぱっと華やぐ。

 明るい声は、ショートケーキのように甘く魅力的で、みんなを幸せにする。

 彼女はまごうことなき、このクラスの人気者だった。

 自分がどんなに、無謀むぼうな恋をしているか、思い知らされる。


 結果として、大塚さんと同じ委員になったのは、大成功だった。それも、比較的仕事が多く、毎日話す機会があるホームルーム委員は最高の役職だ。


「学級日誌、書いてって先生が言ってるんだけど」


 放課後、黒い表紙のA4ファイルを持って、大塚さんがぼくの机にやってきた。

 大塚さんが、担任の桑原先生から学級日誌をあずかるところを見ていたぼくは、彼女がぼくのところにやってくるのを予想して、言うべき台詞を練習していた。


「書く順番、どうする?」


 100回は練習した一言。おかげで、ずいぶん自然に出せた気がする。

 心臓はばくばくで、今にも口から飛び出しそうなほどだけど。


 ホームルーム委員には、毎日一ページの学級日誌を書くっていう仕事もある。

 曜日、天気、欠席者、その日あった授業の内容、クラスの様子、そういうものを書いて担任に知らせるんだ。

 この日誌はたいてい、ホームルーム委員の二人が、順番に担当して書いていく。


「今日はぼくが書こうか」


 うん、今度も声は裏返らなかった。

 だけど、大塚さんはぼくの申し出を断って、予想外の提案をしてきた。


「日誌、毎日一緒に書かない?」


 ぽかん、とぼくは大塚さんを見ていたと思う。

 それってつまり、毎日、放課後の10分間くらい、一緒に過ごすということだろうか。それも、みんなが帰った教室の中で、二人きりで。


「ほら、一緒に考えながら書いたほうが、正確なものができると思うし、早く書き終わるし」


 ああ、とぼくは相づちを打った。


 たしかに、その通りかも。

 この授業は、このへんが難しかったよねとか、話し合って書いたほうが良いものができそうだ。日誌を読む担任の先生も、助かる。

 

 しかし、大塚さんって、真面目だな。

 そんなところも、ステキだ。

 そう思って、顔が熱くなるぼくはもう、きっとかなり重症で。


「どうかな?」


 ぼくは無言で頷いた。

 わかった、そうしよう。

 その言葉は練習してなかったから、とっさに出なかったんだ。


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