三 霧雨
さしている傘がほとんど用をなしていないのも気にせず、降り注ぐ雨粒を真正面から浴びながら、僕はただひたすらに家へ向けてひた走る。
やらかした。迂闊にも反応してしまった……やはり、豪雨の中では認識力が著しく鈍る。もしこれが晴れの日であったならば、すぐにあの女がこの世のものではないと気づけていたはずだ。
「……ハァ……ハア……くそっ、まだいる……」
走りながら背後を振り返ると、あの赤い女は10メートルほど後をぴったりついてきている。
歩調はむしろ遅く、別に走っているわけでもないというのに、どこまで走ってもその距離をまったく離すことができない。
「…ハァ……ハァ……もう少しだ……」
時折、淡い期待を抱きながら後を振り返り、相も変わらずそこにいる女にその期待を裏切られつつも、とにかく雨の中をがむしゃらに走り続けると、ようやく愛しの我が家が雨で狭められた視界に現れる。
「…ハァ……ハァ……あと…少しだ……」
なんとか玄関まで辿り着くと文字通り転がるように上がり込み、「ただいま」も言うことなく一目散に自分の部屋へ直行する。
そして、ずぶ濡れの体もそのままに、真っ先に除湿器をつけようとしたのだったが。
「…ハァ……ハァ……あれ? なんでだ……おい、どおしたんだよ!?」
こんな時に限って、なぜかちゃんと動いてくれない。カチカチと主電源を何度となく押しても、運転中を示すオレンジ色のランプは点灯しないし、まるでなんの反応もしないのだ。
普通なら、例え雨の日であってもそこまで問題視することもないのだが、今みたいに〝憑いてこられた〟状況であれば話が違う。やつらが現れやすい湿気の多い環境にしておけば、家の中にまで侵入してくる可能性は大いにありうるのだ。
「おいおい、勘弁してくれよ……クソ! どうなってんだよ……」
「ちょっとあなた、ずぶ濡れじゃない! ちゃんと拭かないと風邪ひくわよ?」
衣服に染みた雨水とは異なる、背中を伝う嫌な汗と非常な焦りを覚えながら、なおも電源ボタンを高速で連打していると、僕の帰宅に気づいた母親が開け放ったままのドアから顔を覗かせた。
廊下からここまで、床を水浸しにして来た僕の姿を見て、濡れネズミと化しているその身をどうにかするよう催促している。
「ああ、今ちょっと取り込んでるから後で拭くよ……もう、どうなってんだよ……」
「そんなこと後回しにすればいいでしょう? もお、タオル持ってきてあげるから待ってなさい」
それでも、それどころではない状況の僕が気のない返事を返すだけでいると、事情を理解していない母はそう告げて一旦、部屋を出て行く。
「早く、早くしなきゃ……あっ! もしかして……」
その間にも除湿器との格闘を続けていた僕は、ふと、あることに思い至り、体を屈めて除湿器の裏側に回ってみる……すると、思った通りコンセントが抜けかかっていた。
人間、焦っているとろくなことはない。まったく、こんな簡単なことにも気づかず、ただただ無駄に慌てふためいていたとは……なんと間抜けな話であろうか。
ま、ともかくも、これでようやく部屋の中の湿度を下げることができる。
こいつで部屋の中をカラっカラの乾燥状態にし、やつらが出現しにくいような低湿度の環境を作ってやれば、さすがのあの女も入って来ることまではしないだろう。あとちょっとの間乗り切れば、完全にこの危機から逃れることができる。
「ほら、これでちゃんと拭いて。ついでに熱いお茶も持ってきたから、飲んで体を温めなさい」
「ああ、うん。ありがとう。お茶はそこに置いといて」
なんともタイミングよく、ようやく除湿器が動き出したところで母がバスタオルとお茶を持って帰って来た。
問題が解決し、落ち着きを取り戻した僕はタオルを渡されると、湯呑を
せっかく除湿器をつけたのに、自分から出る湿気で空気を湿っぽくしては元も子もあるまい。
「ふぅ……」
半ば髪の毛の水分を拭き取り、濡れた服の表面も大雑把に拭ったところで、僕はやっとのこと安堵の溜息を吐く。
これでもう大丈夫だ。先程来、あの赤い女が侵入してくる気配はないし、なんとか危機は脱したようである。
とりあえずはしばしの間、この梅雨時にあってもカラリと乾燥した、心地よい部屋の中で疲れた体を休めることとしよう。
それにしても今回は危なかった……これからはこんなことがないよう、たとえ突然の豪雨に遭ったとしても、慌てず騒がず、もっと用心深く行動するようにしなくては……。
自身の失敗を戒める一方、どこか心地良い疲労感の残る体に安堵の感覚が拡がっていくのを感じながら、僕はなんとなく卓上の湯飲みの方へ視線を向ける。
「さて、お茶でも飲むか……」
湯呑に入った熱い緑茶からは、今の僕の感情を表すかのように、ゆらゆらと揺れる白い湯気が穏やかに立ち昇っている。
湯気の昇る熱いお茶……とても平和な光景だ……。
…………湯気……いや待て、湯気? ……湯気は何でできている? 湯気とは水分が熱せられ、蒸気になってから再び外気に冷やされたものだろう? それって、つまりは空気中に水分を補充して、周りの湿度を急激に上昇させて……。
愚かにも、今さらそのことに思い至った僕は、飛びつくように慌てて卓袱台の上の湯飲みを両手で掴む。
と、その瞬間。
「見いつけたあ…」
そんな粘りつくような女の声が、鼓膜のすぐ近くで聞こえたかと思うと。
「……ひっ!」
目の前を覆う湯気の中から、あの赤いコートを着た女の顔が目と鼻の先にぬっ…と現れた――。
(雨鬼 了)
雨鬼(うき) 平中なごん @HiranakaNagon
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