二 豪雨

 だが、不意にボトっ…と、鳥の糞でも落ちたかのように大きな音が頭上のビニール傘で響いたかと思うと、それは時を置かずしてボトボトと連続して聞こえるようになり、やがて、これまでとは比較にならないほどの大きな雨粒の群れが、叩きつけられたアスファルトの上で鯉の餌やりの如く狂って飛び跳ね始める。


 一瞬にして、辺りは激しく降り注ぐ豪雨に覆われ、はっきりと〝線〟になって見える幾千もの雨の軌跡によって、一寸先の視界もままならぬほどになってしまった。


 いわゆる〝ゲリラ豪雨〟というやつである。


 この地球温暖化に伴う新しい気象現象は、時に恐ろしい自然災害をもたらす非常に厄介なものであるが、僕個人にしても、それは忌々しき異常気象だった。


 その目に見えて大きな雨粒とそれが奏でる大きな雨音は、僕の視覚と聴覚を著しく低下させ、通常の認識力というものを僕から奪い去ってしまう。


 常日頃は苦もなくできている人間とそうでない・・・・・者達との判別が、この豪雨に煙る街の中にあっては恐ろしく困難なものとなってしまうのである。


 最初から豪雨とわかっているなら極力外には出ないし、出たとしてもそれなりに対処はできる。だが、その対処する時間も、心構えをする暇すらも与えてくれないのがこのゲリラ豪雨の厄介なところだ。


「マズイな……これは本気で急がないと……」


 ざんざん降りに狭い傘の端からはみ出した肩の濡れるのを気にしつつも、なるべく足を速めてさらに帰宅を急ぐ。


 途中、横断歩道の赤信号にその足を止められたりしてしまうと、急ぎたいのに急げない儘ならぬ状況にたいへんフラストレーション溜まる。


 内心、とてもイライラしながら信号が青になるのを待っていると、道の反対側に立つ、赤いトレンチコートを着た髪の長い女性がふと目に留まった。


 止めどなく降り注ぐ無数の雨粒の線に、ぼんやりと灰色に霞んだこの世界の中で、その真っ赤なコートだけが妙に目だって見える。


 女性の顔はやはりぼんやりとしていてよくわからないというのに、まるで夢の中にでもいるかのような、なんとも不思議な景色である。


「………………?」


 しかし、その赤色にしばらく視線を惹きつけられていると、それ以上に不思議なことに気づく。


 こんなどしゃ降りの中だというのに、彼女は傘をさしていないのだ。


 まあ、トレンチコートなら多少の雨は平気だと思うが、それにしたってこの雨では限界があるだろうし、髪だってずぶ濡れになってしまうだろう。


「……あっ!?」


 と、その時、突然、彼女が赤信号を無視して、往来のある車道へ足を踏み出した。


 いったい何を考えているのか? 当然、そんなことをすれば、路上に溜まった雨水同様、高速で行き交う車にすぐさま跳ね飛ばされてしまう。


「危ないっ!」


 案の定、気づかずやって来た車が彼女に接触した瞬間、僕は思わず声を上げてしまった。


 …………しかし、さらに不思議なことが僕の目の前で起こる。


 あの女性を轢いたはずなのに、クラクションの音はおろか、ブレーキ音一つしないのだ。それどころか、接触した車は何事もなかったかのようにそのまま走り去り、他の車も気づいていない様子で平然と往来を続けている。


 まるで狐にでも抓まれたかのような心持ちで唖然とそちらを見つめていると、やがて信号が青に変わり、待っていた通行人達が一斉に動き出す。


 モーセの「出エジプト記」の如く車の行き来がピタリと止まり、車道に開いた横断歩道という道を、傘をさした人々が対面から渡って来る……。


「……!」


 彼らがこちら岸へと辿り着き、傘で閉ざされていた視界が不意に開けると、そこには赤いコートを着たあの女が、じっと僕の方を睨んで立っていた。


 怪我や衣服の汚れはおろか、車にはねられたような痕跡はまるでなく、ただ一つ変わった所といえば、吊り上がった眼をした蒼白い顔が、今ははっきりとわかることくらいだ。


 見るものを射竦めるようなそのつり眼は、間違いなく僕の方を直視している。


 と、思っている内にもカツカツと赤いヒールの底を打ち鳴らし、女は一直線に僕目がけて歩み寄って来た。


 そして、息もかかるくらいの至近距離に顔を近づけ、僕の目を覗き込みながら彼女は尋ねる。





「あなた、見えてるんでしょう?」





「ひっ! …う、うわぁぁぁぁぁっ…!」


 次の瞬間、激しい雨音の中にありったけの悲鳴を響かせ、僕は全速力でその場を駆け出していた。



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