雨鬼(うき)

平中なごん

一 梅雨

 その日は、朝から雨が降っていた……。


 なんて、池波正太郎の時代小説みたいな台詞を心の中で呟いてみたが、それも当然であろう。


 今年もあの季節・・・・が……梅雨がやって来たのだ。


 どんよりと灰色の雲で覆われた空間に雨粒の零れ落ちる音がしとしとと静かに鳴り響く中、紫陽花の葉は異様なほどにその緑の鮮やかさを増し、雨水の染み込んだ大地からは草木や土の臭いをこれでもかというくらい濃密に漂っている。


 こうした自然の凝縮したような〝雨の臭い〟を好きだという人もいる。


逆に、カエルを連想するから嫌いだというカエル恐怖症の人なんかもいる。


 僕はというと、後者の方だ。


 といっても、カエル恐怖症でも、カエルを連想するからなんかでもない。


 この臭いは、〝やつらの臭い〟に外ならないからだ。


 いや、正確に言うと、「やつら・・・が出現する時」の臭いである。


 雨の臭いが充満し、充分過ぎるほどに辺りの湿度が上がった頃、まるで〝あぶり出し〟の絵のようにして、半透明の黒い影がそこここからじわじわと浮かび上がり、次第に鮮明な人の形へとそれは変わってゆく……。


「気づかれる前に帰らなきゃ……」


 この時期ばかりでなく、雨の日は学校が終わるとすぐに校門を飛び出し、傘が風にまかれて歩きづらいのもおかまいなしに、ずっと速足でなるべく早く家へ帰るようにしている。


 僕は生まれつき、いわゆるそういうもの・・・・・・が〝見えやすい〟体質だった。


 水の原子を媒介にでもしているのだろうか? 誰かが何かで言っていたが、湿気の多い場所の方がやつら・・・――〝すでにこの世のものではない〟者達は出やすいのだという。


 だから、雨の日は危険なのだ。


 賑やかな場所も好みではないらしく、また、向こうもターゲットが拡散するので、学校やお店とか、電車の中のように人の大勢いる所ならまだいい。


 問題は屋外の移動中などに、人気ひとけのない道でぽつんと独りぼっちになった時だ。


 見えない人にはわらないかもしれないが、やつらは生きている人間を見つけると、すぐに寄って来て話しかけたり、至近距離から顔を覗き込んだりと、様々に接触を試みようとする。


 淋しいのか? 未練でも晴らしてほしいのか? その理由はなんなのかよく知らないが、とにかくそういうものなのだ。


 やはり、まったく見えも気づきもしない人には向こうも興味を失って自然と去ってゆくので、結果的にいないのと同じであるから別になんの問題もない。


 だが、僕ら気づいてしまう・・・・・・・者は違う。


 気づいていると悟られたら最後、どこまでも執拗にしつこく憑きまとわれる。まだ、そんなことわからなかった幼い頃、僕も思いっきり取り憑かれて、ずいぶんと大変な目に遭ったものだ。


 ならば、「気づいていないふりをすればいだろう」と思う人もいるかもしれない……。


 でも、考えてみてほしい。


 生身の人間でも同じことだが、幾人もの死相を浮かべた蒼白い顔のそれ・・が、すぐ耳元でぼそぼそと話しかけてきたり、息がかかるくらいの至近距離でガン見してきたりするのだ。そんな中で目を合わせることもなく、じっと気づかないふりをし続けられる者がはたしてどれだけいるだろうか?


 だから、やつらが出やすい雨の日にはなるべく外出を避け、学校や買い物なんかのやむなく出歩かなくてはならないような時も、できうる限り早く家に帰るようにしている。


 自分の家の中ならば、そもそも出る・・ような場所ではないので、外で拾って来たり・・・・・・しない限り大丈夫だ。


 それでも、用心に越したことはないので、湿気の多いような日には常に除湿器をつけるようにしている。


 ちなみに僕以外の家族にはこの〝見る〟体質の人間がいないため、いくら説明したところでわかってはもらえず、高価な除湿器を買ってもらうのに随分と苦労したものだ。


 ともかくも、こんな日には早いこと我が城・・・に逃げ込んでじっとしているに限る。やつらがこっちに興味を向ける前に、急いで家までの距離を走破せねば……。


 しとしとと天から落ちて来る雨粒がじんわりと街を濡らし、人に混ざって人ならざる者・・・・・・が徘徊する湿った道を、僕はいつも同様、傘を片手に速足で家路を急いだ。


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