第六話 クロユリとローゼ

 あれから一年経った今も、私はクロユリと一緒にいる。

 あの夜と違うのは、もう死のうだなんて思わなくなったことくらいだ。


「ねぇクロユリ、クロユリはどこかここ以外の場所に行ってみたいと思ったことはある?」


 いつものように海に釣り糸を垂らすクロユリの隣に腰かけて、私はそんな質問をしてみた。


「昔はよく思ってたが、今はこのままでいい」

「どうして?」

「さぁな。……ローゼはどうなんだ? 」


 彼は顔をそらして質問を返してくる。


「ええ、あるわ。私が住んでた村には歳の近い子がいなかったの。だから大人になったら旅をして、友達も作って……そんなことばかり考えてたわね」

「今もそう思うのか?」

「いいえ。今はこのままがいいわ」


 私もクロユリと同じ言葉を返す。


「そうか」


 クロユリは海を見つめたまま、安心したような穏やかな顔で笑った。

 私も海の方に顔を向けてみる。

 そういえば初めて彼と釣りに行った時に魔法で魚を捕まえたら、クロユリったら


「そういうことじゃねぇ」って顔してたのよね。

 あれ以来魔法での魚釣りは禁止されたし。絶対魔法使った方がいっぱい捕まえられるのに……。


「ねぇクロユリ、引いてるわよ。クロユリ?」


 声をかけても反応は無く、竿が海に落ちていく。クロユリを見ると、彼は苦しそうに両手で口を押えている。


「どうしたの!?」

「……ぐっ、心配するな。大したこと、ねぇ」


 そう言いながら私に向けられたクロユリの手は、赤黒い血でべっとりと濡れていた。


「クロユリ、血が……」


 最悪の想像が頭をよぎって、涙が頬を伝っていく。


「大げさだな。……これくらい、寝てりゃ治る」


 そう言って、クロユリはばたりと倒れる。


「クロユリ!」


 とっさに抱き留めた彼の体はとても熱くて、余計に不安が込み上げてくる。


「……死なないよね、クロユリ」


 クロユリを家に運び込んで一週間、彼はずっと寝込んでいる。

 私の魔法は目に見えない傷は治せないのか、彼の体調は一向に良くならなかった。私はただ彼が苦しむ姿を見ていることしかできない。


「……ローゼ」

「クロユリ! 目が覚めたのね」


 薄く目を開けたクロユリに少し距離を詰める。


「ローゼ、聞いてくれ」

「どうしたの?」

「俺は、多分もう長くない」


 息苦しそうに咳込みながらクロユリが言う。


「っ! そんなことないわ! 貴方はもっと――」

「ローゼ……分かるんだ。今だって、こうやって口を開くのが、やっとだ。体もまるで、自分の物じゃない、みたいに重い」


 かすれた声で彼が遮る。


「そんなの、嫌よ。貴方がいないと私はどうやって……」

「そんなこと、ねぇよ。……ローゼ、お前にはやりたいこと、ちゃんとあるじゃねぇか」

「そんなの――」


 クロユリの腕が、弱々しく私の手を掴む。


「旅をしろ。……そこで、いろんなものを見ればいい。いろんな奴に、会えばいい。そしたら、いつか、お前の答えも見つかるだろ」


 そっか、あの話ちゃんと聞いてたんだ。

 でも、馬鹿ねクロユリ。私は貴方がいてくれれば、それで良いのよ。

 旅なんてしなくても、この家で静かに暮らせれば、それで良かったのに。


「俺が死んだら、こんなとこに、長居すんじゃねぇぞ」


 そう言っているうちにも、クロユリの息はどんどん薄くなっていく。


「……分かったわ」


 私はそんな嘘をついて、彼の頬に触れる。

 まだ温かい彼の体温を忘れないように。


「ねぇクロユリ」

「……なんだ?」

「貴方が好きよ」

「そうか」


 少し頬を緩めて答える彼の声は、いつもと同じようにそっけない。

 でもその声を聞いた瞬間、彼の頬に触れる私の指が、ゆっくりと灰になっていく。

 弱くなる彼の息に合わせるようにさらさらと、今まですぐに治った腕も足もゆっくりゆっくり灰になる。

 痛みはない。でもこれが私の死なんだって理解できた。

 びっくりするくらい穏やかで、静かな死。


「大好きな人と一緒なら、悪くないなぁ」


 私がそう小さく呟いたときには、もう肩まで灰になっていた。

 そんな私を見て、クロユリが今までよりも苦しそうに咳込む。


「ローゼ……」

「大丈夫よ、痛くもないし。それに――」

「俺は、お前が嫌いだ」


 涙を流し、血を吐きながら彼はそう言った。


「え?」

「俺の、この病だって、お前のせいだと思ってる」


 苦しそうに顔を歪めて、じっと私を見つめながら。


「だから! 俺はお前を、愛してなんかいねぇ」


 その言葉を聞いた瞬間、灰になっていた私の体が元通りになっていく。


「クロユリ? どうして……」


 なら、どうして私に優しくしてくれたの?

 そう聞こうとしてクロユリを見ると、彼は安心したような穏やかな顔で、深い眠りについた後だった。


 馬鹿みたいだ。彼が優しくしてくれるのは、彼も私と同じ気持ちだからだと思ってた。でも、私が一人で勘違いしてただけだったんだ。

 そういえば彼は最後まで、愛してるとか好きだなんて言わなかったな。


『俺は、お前が嫌いだ』『俺はお前を、愛してなんかいねぇ』


 さっきの彼の言葉が、頭の中を駆け回る。

 私はほんとにクロユリが好きだったのかな?

 彼の優しさに甘えて、依存してただけじゃないの?

 もう分からないよ。


『考えても分からないならしょうがない』


 さっきまでとは違う優しい声で、いつかのクロユリの言葉が頭をよぎる。

 彼は私を嫌ってたのかもしれない。私は彼に依存してたのかもしれない。

 でもそんなの、今考えたって分からない。


「……貴方がどんなことを考えてたかなんて分からないわ」


 私の前で眠るクロユリは、もう喋ることはない。


「でも、貴方がしてくれたことには、感謝してるのよ」


 この家に泊めてくれたことも、私を化け物って呼ばなかったことも、全部。


『旅をしろ』


 そうね。そうしたら貴方が言うみたいに、答えが見つかるかも。


「ありがとう、クロユリ。おやすみなさい」


 何度も呼んだ彼の名前に、応える声は無かったけれど、夜の海を照らす月は彼と初めて会ったときと同じくらい、明るく輝いていた。

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