第三話 魔女が生まれた日
私が生まれたのはこの村から遠く離れた山脈の、さらに奥にある小さな村。ヴァルト村だった。
村はぐるりと森に囲まれていて、そこを抜けると海に面した崖がある。
崖の上からは海のずっとずっと向こうにある大陸が小さく見えていて、晴れた日にそれをぼーっと眺めるのも、そこでただ波の音を聞くのも、なんだか穏やかな気分になれるて、私は大好きだった。
とにかく、そんな村で私は普通の村娘として生まれて、お父さんとお母さんと幸せに暮らしていた。
「お母さんおはよう!」
「おはよう■■■。……今日も出かけるの?」
着替えを済ませて靴を履いた私に、お母さんはいつも通りの穏やかな声で言う。
「うん! ちょっとお散歩!」
「そう、ならこれを持って行きなさい」
そう言ってお母さんは、朝食に用意されていたサンドイッチを袋にいれて差し出してくれる。
「ありがとう!」
「あんまり遅くならないように帰ってくるのよ」
「はーい!」
勢いよくドアを開けて、私は外へ飛び出した。
森を抜けるとすぐに崖に着く。私はその端に腰を下ろし、足をぶらんと投げ出して海を眺めた。
よく晴れた今日は太陽の光を水面が反射して、夜空にちりばめられた星のようにきらきらと輝いている。
そして聞こえる波の音、岩を打つその音が心地いい。
両手を組んで、ぐっと伸びをする。
「んんー。……やっぱりここは落ち着くなー。お日様はあったかいし、海の向こう側まで見えるんだもん」
そいえば、あっち側にも村があって、人が住んでたりするのかな?
もしそうなら行ってみたいなー。ヴァルト村には同い年の子もいないし。
別に生活に不満はないけど、遊び相手がいないのはやっぱり寂しい。
「海の向こう側の村。……そこなら友達とかできて、恋人も……はぅ」
誰に聞かれたわけでもないのに、それが逆に恥ずかしい。
赤くなった頬が熱を持つ。恋人、できるかな、私にも。
サンドイッチをかじりながらぼーっと眺める海は、だんだんオレンジ色に染まっていく。
ふぅっと深呼吸を一つ、頭を振って思考を中断する。
「……暗くなってきたし、遅くなる前に帰ろう」
落ちないようにゆっくりと立ち上がりながら、さっきこぼした呟きを思い出して、また頬が染まる。
そんな顔を誰にも見られないように、私は少し俯きながら森の中に入った。
いつもより帰るのが遅くなったせいか森は暗く、木々が擦れる音がとても不気味に聞こえる。
「早く、森を抜けないと……」
どんどん暗くなって周りが見えなくなっていくのが怖くて、さっきまでの浮ついた妄想は頭の片隅にも残っていなかった。
「きゃっ! だれ?」
ぽきり、と後ろから聞こえた枝の折れる音に思わず飛び上がる。
恐る恐る振り返ると、私より一回りも大きな野犬が、頭を低くしてよだれを垂らしながら唸っていた。
「……いや。助けて、誰か!」
震えた声で叫びながら走り出した私を、野犬は吠えながら追ってくる。
怖いよ。誰か助けて……。
村に近いとはいえ、こんな暗い森の中に人なんているわけない。
分かってはいても、私は叫ぶことをやめられない。
せめてもっと村の近くまでいければ誰か気づいてくれるかも。
そんな希望を持って走る私を嘲笑うかのように、野犬はすぐ後ろまで迫っている。
だけど人の、それも私みたいな子どもの足では、獲物を前にした獣になんて敵うはずなかった。
ついに追いついて背中に飛びついた野犬の鋭い爪が肩の肉を裂く。その衝撃で私は前のめりに倒れた。
「うぅ。……痛い、痛いよ」
体を血で赤く染めながら、私はすすり泣くことしかできない。
けど人の言葉なんて、餌を前にした獣に通じるはずもない。野犬は容赦なく私の体に牙を立てる。
「ぐっ! もういや。痛いのも、苦しいのも、嫌だよ……」
私がお母さんの言うことを聞かなかったからだ。もっと早く帰ってれば、こんな目に遭わなかったんだ。
ごめんなさい。ごめんなさい、お母さん。帰ったら、ちゃんといい子にするから。
だから、許して。
「おうちに、帰りたいよ……」
こぼれる涙が、顔に付いた血と混ざりあって落ちていく。
赤い涙には目もくれず、野犬の牙は深く深く腕に刺さっていった。
どれだけこの獣のおもちゃにされていたのか分からない。
すごく長い時間だった気もするけど、ほんの一瞬の事だったのかもしれない。
血が流れ過ぎて、もう頭が回らない。でも、次で終わりなんだ。
不思議とそれだけは分かる。
野犬の牙が、死が喉に迫る。その恐怖が、皮膚を裂かれた痛みが、薄くなっていた意識を覚醒させる。
まだ、死にたくない!
「もう、やめて!」
私がそう叫ぶのと同時に、風が強く吹いた。風は私の上に乗った野犬を吹き飛ばし、刃のように裂く。
皮膚を切る程度のものだったが、野犬の一方的な虐殺を終わらせるには十分だった。
餌だと思っていたものに反撃され、野犬は弱々しい鳴き声と共に傷ついた体を森の奥へ引きずっていった。
「……助かった、の?」
緊張から解き放たれ、私は背中をべったりと地面に寝かせる。
何が起きたのか分からないけれど、なんとか生きてるみたい。
「おうちに、帰らなきゃ――っつ!?」
立ち上がろうとした時、全身に鋭い痛みが走り、傷口から血が流れる。
それに耐えきれず、私はまた地面に転がる。
「……これじゃあ、帰れないよ」
また涙があふれてくる。早く帰りたいのに。
お母さんやお父さんに会いたい、そう願いながら肩の傷口を掴む。
次の瞬間、傷口を掴む手に淡い光が灯る。その光はいつの間にか私を包み、体中の傷を塞いでいく。
「えっ?」
驚いている間に傷は消え去り、さっきまでの痛みもいつの間にか無くなっていた。
「……これって、魔法? もしかしてさっきの風も?」
昔お母さんが話してくれた優しい魔女の話を思い出す。今と違って、魔女と人間が仲良く暮らしてたころのお話を。
ただ死を待つだけだった私に、気まぐれな神様が同情でもしてくれたのだろうか。
ゆっくりと立ち上がり、すっかり傷の消えた体を見る。
「なんだか分からないけど、これでおうちに帰れる」
だから早く帰らないと、お母さんに怒られちゃう!
まだ少し遠い村の灯りを目指して、私は走り出した。
「ただいま!」
勢いよくドアを開けた私の声に、お母さんが飛んでくる。
「■■■! どこまで行ってたの! 今日は早く帰って来てって言ったじゃない! ……心配したのよ」
涙を流しながらお母さんはそう言って、ぎゅっと私を抱きしめる。
お母さんから伝わってくる温かさに、私の目からも涙がこぼれる。
「ごめんなさい、お母さん。ごめんなさい」
「服もこんなにぼろぼろになって……」
野犬に襲われた、なんて言ったらお母さんはまた心配するだろう。
これ以上心配させたくないな。
「……森で、枝にひっかけちゃって」
嘘、ばれちゃうかな?
「まあまあ、無事に帰ってきたんだから良いじゃないか」
「お父さん!」
お母さんの後ろに立ったお父さんは、私の頭を優しく撫でてくれる。
「おかえり、■■■」
一息ついて、お父さんはパンと手を叩いた。
「さあ、ご飯にしようか。■■■もお腹空いただろう?」
「うん!」
「はぁ。……そうね、■■■ご飯の準備、手伝って」
「はーい!」
結局私は、魔法のことは誰にも話せなかった。おとぎ話とは違って、この世界の魔女は嫌われ者だから。
まぁ、この日以来魔法を使うような機会もなかったから、私も忘れてたんだけど。
特に貧しい訳でもなく、裕福な訳でもない。お父さんとお母さんがいて、静かに日々が過ぎていく。平凡で、穏やかな人生。
でもそんな幸せはこの日から音も無く、でも確かに崩れ始めてたんだ。
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