第58話 新たなる邂逅

 規則正しいノギの寝息が隣から聞こえてきたのを確認すると、ラダンは閉じていた目をゆっくりと開けた。

 音もなくするりと身を起こし、静かに窓の外に目をやる。

 煌々と照らされた、あの荘厳そうごんな宮殿の何処かに皇太子はいるのだろう。

 ようやく獲物の喉元まで手は伸びた。だと言うのに、釈然としないのはなぜだろうか……。

 ラダンは束の間じっと宮殿を見つめていたが、やがて、ふっと短く息を吐くと素早く寝具から抜け出した。

 月詠みの塔を出ると、月明かりが綺麗に整えられた中庭を蒼白く照らしている。

 その蒼白さとは対照的な濃い月影の中を静かに歩きながら、ラダンは思った。

(どうやら長く日の光を浴びてしまったようだ)

 夕間、ノギの言葉で揺れた己がやけに腹立たしかった。

 見透かされたようだったのだ――己が何者であるか考えることを放棄し、与えられた任務をこなすだけの操り人形が、本来持ち得ないはずの自我を持とうとしていることを。

 これまで、ラダンはそれから目を背けてきていた。

 なぜなら、操られる鬱陶しさを感じながらも結局何も変えようとしなかったのは、この生き方が性に合っているという自覚があったからだ。

 明るく平穏な世界に憧れることは一度もなかった。それは、これからも決してないだろう。

 けれども、心のどこかで、雁字がんじがらめのわずらわしさから解放される〈自由〉を求めていたことも確かだった。

 その思いがいっそう強くなったのは、自由を体現するあの男――ノギと出会ってからだったように思う。

 そう思った瞬間、ラダンはぴたりと足を止めてその場に立ちつくした。

 自身とは正反対にいるノギの光に徐々に犯されつつあることを自覚すると、ラダンは片眉を上げて鼻を鳴らした。

 その呆れにも似た嘲笑は誰に聞かれるでもなく、ただ深い夜の闇へと消えていった。



 目当ての赤子は小さな御帳台みちょうだいの上ですうすうと穏やかな寝息を立てて眠っていた。

(争いを好まぬ平穏な国はみなこうなのだろうか、驚くほど容易く敵の侵入を許すらしい)

 ラダンは心の内で皮肉を吐きながら、音もなく赤子に近付いた。

 冷めた目でちらと視線をやると、無防備に眠る赤子の姿がラダンの瞳に映る。

 その瞬間、目の奥でバチンと何かが爆ぜた。

 そのあまりの衝撃にラダンは咄嗟に背を仰け反らせ、後ろによろめきながら思わず固く目を閉じた。

 途端、暴力のような強烈な何かが身体中を駆け巡り、一瞬にして全身がぶわりと粟立った。

 そしてそれは、意志とは関係なく、血液が全身を巡るように、しかし、あまりにも強引にラダンの内側に流れ込んできた。

(なん、だ……これは!)

 無理やり駆け巡るその〈記憶の渦〉に息が出来ず、ラダンは思わずぐっと胸を押さえて膝をついた。

 知らぬはずの女の顔が、見覚えのない男の顔が、行ったこともない庭の景色が頭の中を物凄い速さで駆け抜けていく。

 その内、脳が揺れ始め、激しい吐き気と共に割れそうなほどの頭痛に襲われるとラダンは堪らず小さく唸った。

 同時に、はっと目を見開いた。

 信じられなかった――自分が泣いていることに気付いたのだ。

(なぜだ……なぜ俺は泣いている)

 ラダンにはこれが何の涙なのかは分からなかった。悲しみとは違う、悔しさとも違う、これは――。

(安堵だ……)

 どうしてそう思ったのかはラダン自身にも分からなかった。ただ胸の内に広がるこの感情に名を付けるとするならば、それが一番正しいような気がしたのだ。

 そう思ってからラダンは顔を歪ませた。

(何が安堵だ)

 ラダンは心の内で悪態をつくと、息を整えようと何度も深い呼吸を繰り返し、やがて、苛立たし気に目元に溜まった涙を指で弾き飛ばした。

 金色こんじきまなこに関わってからというもの、己でも分からぬ様々な変化や奇妙なことばかりが起きている。

 揺らいでしまった己の感情も、訳の分からぬ安堵も、知るはずのない記憶の渦も、その全てがわずらわしかった。

(さっさと終わらそう)

 ラダンは懐から素早く小刀を取り出すと、赤子の柔らかい首筋に刃を当てた。

 枕元に置かれた小さな蠟燭のだいだいが刃の中でゆらりと揺れる。

 しかし、すぐに鮮血に染まるはずだったその刃は、思いがけずそこでぴたりと止まってしまった。

 ラダンが刃を当てた瞬間、赤子がゆっくりと目を開けたのだ。

 ラダンは一瞬息を飲み、驚愕の表情でその金色の瞳を見つめ返した。

 同時に、身体がこれ以上動くことを拒絶しているような、見えぬ何かに動きを止められているような、そんな気味の悪い感覚が全身を襲った。

 意志と反する身体の反応にラダンは困惑と不快の色を顔に滲ませた。

(何が起こっている……?)

「あなたには出来ぬはずです」

 突如聞こえたその声にラダンははっと我に返ると素早く跳躍し、壁を背にして身構えた。

「誰だ!」

 ラダンの問いに答えるようにして、御帳台の奥の襖から静かに現れたのは予想外の人物だった。

「あんたは……」

 見覚えのあるその顔に、ラダンは驚きの表情を浮かべた。

 以前ヤロモ酒場で酒を共にした旅人の一人が姿を現したのだ。

 名は確か……。

「あの時はお伝えしませんでしたが改めまして、月詠み族第六十七代目当主ムウと申します。お久しぶりですね」

 敵意のない穏やかなその声がラダンをますます混乱させていく。

 そんなラダンをよそに、ムウは御帳台の傍に腰を下ろすと、愛おしそうに赤子を眺めながら静かに口を開いた。

「縁というのは本当に不思議なものですね、まさかあなただったとは思いもしなかった」

 要領を得ないムウの言葉にラダンはぐっと眉根を寄せた。

「どういう意味だ」

 すると、ムウはゆっくりと顔を上げ、穏やかな表情でラダンを見つめた。

「あなたに伝えなければならないお話があります。それはきっと、あなたが知らねばならぬ真実であり、知っておいて欲しい物語です」

「……」

「それを伝えたいと願う方がいらっしゃるのです」

 その時、奥の襖が再び開かれた。

 その開かれた襖から現れたのは、初老の男を一人だけ脇に連れた、この国の皇后その人であった。

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月詠み師ムウ―金色の眼― 浦科 希穂 @urashina-kiho

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