第56話 舞い降りたもの

 ムウは呆然と目の前に立ちはだかる女人にょにんの背を見つめていた。

 それは見慣れたもののはずだった。あの家の、あの水場で、無口ながらも手際よく水仕事をこなす、ごく普通の女人の背のはずだった。

 しかし、今目の前に見えているものは本当に己の知っている人物の背なのだろうか。

 たった今、闇夜の中で凄まじい戦闘を見せた人物をムウは知らなかった。

 辺りは不気味なほどに静まり返り、ただ秋夜しゅうやの虫たちの声だけが場をたがえたように響いている。

 最初に重い口を開いたのはサヤだった。

「兄上……この方だけはどうか、お見逃しください」

 そう言ってサヤは小さく腕を上げると、ムウを庇うような仕草をした。

 アッカはその光景を呆然と眺めながら暫く声も出せずに黙っていたが、やがて、締め上げられた喉から絞り出すようなかすれた声でサヤに問うた。

「お前……濁流に飲まれたのではなかったのか……?」

 この時アッカの脳裏に浮かんできたのは、妹の死を伝えながら悔しそうに顔を歪ませたユホウの顔だった。

 アッカの問いにサヤは小さく首を振ると、ぽつりぽつりと話し始めた。

「濁流には飲まれました。けれど、事故ではありません、そうはかられたのです。私はうっかり足を滑らすようなヘマはしません。あの日の任務は私を狩るために仕組まれた罠でした」

「誰がそんなことを!」

 アッカはサヤの話を遮って怒鳴り声を上げた。

 サヤは一度ちらとアッカに目をやり、少しためらってから言った。

「……ユホウ様です」

 しんと静まり返った。

 大きく見開かれたアッカの目に今宵の月が写り込む。

「なん、だと……」

 辛うじて口から紡げたのはこの言葉だけだった。

 鳩尾みぞおちに重いこぶしをくらったような衝撃に息を詰め、思考することを拒もうとする頭を必死に回転させようと踏ん張った。

「どういう、意味だ……」

 食いしばった歯の隙間から漏れ出た声には困惑と怒りが混じっていた。

(我があるじがそのような真似をするはずがない)

 アッカはぐっと拳を握ってサヤを睨みつけた。

 しかし、サヤは淡々と話を続けた。

「言葉の通りです。ユホウ様にとって私は邪魔な存在だった、ただそれだけのことです」

 サヤは一度言葉を切ってから、静かにアッカに問うた。

「兄上、カトラ様を覚えておいでですか?」

「……勿論だ、ユホウ様の奥方ではないか」

「ええ、お身体が弱い代わりに、呪術、毒術、医術に非常に優れたお方でしたね」

 アッカは黙ってサヤの話を聞いていた。

 ユホウ様の伴侶であったカトラ様――狩人かりびとの女はまず彼女の元でそれらの術を学ぶ。女は男の身体と造りが異なる為、武術以外の戦い方を徹底的に叩き込まれるのだ。

 カトラ様は群を抜いてその才に秀でたお方だった。

(それが何だというのだ……?)

「ある日、私はカトラ様に呼び出されました。穏やかな寝息を立てて眠る小さなラダン様をかかえながらカトラ様は私に話してくださいました。

 カトラ様はなぜかこうなることをご存じでした……ユホウ様が実の息子であるラダン様のお命を狙うということを」

 アッカは僅かに目を細めた。

「理由は問うなとめいじられたので詳しくは分からずじまいでしたが、やまいとこに伏せられてしまった時も、亡くなるその直前ですらも、カトラ様はずっとラダン様の身を案じておられました。そして、息を引き取るその瞬間に、カトラ様は私にラダン様のお命を託されました。

 その日から私はひそかにユホウ様の周りを調べ始めたのです……ですが、ユホウ様の方が何枚も上手うわてでした」

 サヤは小さく息を吐いてから、呟くように言った。

「だから私は殺された……いえ、正確には殺されかけた、ですが」

「……」

はかられ突き落とされた濁流から何とか這い上がった私は、身を隠す為の場所を求めて数日間彷徨さまよい続けました。

 そしてある日、一人の男に救われたのです。彼は私のことを深く詮索しようとしなかった。そればかりか、帰る場所がないのならば共に故郷へ帰らないかと申し出てくれました。初めは時を見て離れればよいと思っていました……しかし、誤算でした。彼やその家族と共に暮らしていく内に、いつしか私の中で彼らが守るべきかけがえのない存在になってしまったのです」

 サヤは呆れたような苦笑いを一つこぼしてから更に続けた。

「そして、今私の後ろにいるこの方は、そんな彼らの大切な友人なのです」

 少しだけムウの方へ首を向けてから、サヤは再びアッカに向き直った。

「ですから、いくら兄上の獲物であったとしても私はこの方を守ります」

 サヤの瞳が真っ直ぐにアッカを射抜く。

 アッカは信じられぬ想いで妹を見つめ返していた。

(なぜだ……)

 なぜお前はユホウ様を信じずにカトラ様なんぞを信じたのだ。なぜ我が主のお考えを信じもせずに狩ると決められた獲物を守ろうとしたのだ。

 そして、今もなお、お前は愚かにも我が主の獲物を守ろうとしている。

(なぜだ……)

 アッカはぎりぎりと奥歯を噛んだ。

「お前は、狩長かりおさめいそむく気か……?」

 最後の情けだった。アッカは怒りを抑えながら静かに問うた。

「私はもう狩人かりびとではありません。サヤ・オグナというただの常人です」

――決別だった。

 再び両者が戦闘の姿勢に入った時、は突如両者の間に舞い降りた。

 その着地姿は、ふわりと、優雅で、そして酷く緩慢かんまんな動きに見えた。

 けれども、常人のムウでさえも分かるような確実に異様な何かをまとった大きなふくろうだった。

 次の瞬間、ムウは呆気に取られてポカンと口を開けた。

 今まさに殺し合いを始めようとしていた目の前の二人が、突如現れた不気味な梟に対して瞬時にぬかづいたのだ。

 ムウはぎゅっと眉根を寄せて、その異様な光景に息を飲んだ。

 舞い降りた梟はアッカの方にくるりと首を向けるとゆっくりとくちばしを開いて言った。

「今すぐユホウに伝えろ。これは我が獲物である、手出しはいらぬと」

「……御意」

「ゆけ」

 アッカは片膝をつき身を起こすと、右腕で両目を覆った。そして、次の瞬間にはもうアッカの姿はそこにはなかった。

 一方、サヤは唇を噛み締めながら地面を見つめていた。

(なぜ、ムウさんが婆様の獲物なの……)

 混乱と、もう自分の力ではどうにもできぬことを悟った絶望にぐっと拳を握った。

 しかし、サヤは次に起こったことに目を丸くした。

――突如消えたのだ。

 何が起こったのかは分からなかった。しかし、確実に目の前にいる梟のうつわから婆様の気配が消えたのだ。

 婆様に限って術をかされたということは考えられなかった。ならば、婆様自らが獣寄魂じゅうきこんの術を解いたのだろうか……いや、どちらでもよい。今はこの好機を逃してはならない。

 サヤは素早く身を起こすと、ムウに駆け寄りそっと手を差し伸べた。

「さあ帰りましょう。きっと、お義母かあ様が心配されています」

 サヤは呆然とするムウの腕をとって静かに山をくだっていった。

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