第55話 月下の攻防戦

 じりじりと肌を焦がす夏の日差しが身を潜め、秋の始まりを告げるそよ風がムウの頬を撫でたのは、クヴ谷を発ってから随分と日が経った頃だった。

 気が付けば多くの時をかけてしまったように思う。

 皇太子様がお披露目される春の誕生祭までに残された季節はあと二つとなった。

「導けるだろうか……この複雑に絡まり合った糸を解き、そして、その先にある真実を」

 ムウは自身に問いかけるようにぽつりと呟きながら、川の水を旨そうに飲んでいる馬の首をそっと撫でてやった。

 クヴ谷を出てからは、すぐに大きな街で馬を一頭買った。

 みかどに託され、友人に守って貰った大切な金貨はムウを迅速に南の地へと導いてくれる足となった。

 とは言っても、馬にも自身にとっても休息は必要だった。

 馬を預けられる宿を探すのに苦労はしたが、そういった処にはたいてい隊商が泊まっているので、馬で駆けられる山道や隊商たちしか知らぬ抜け道などを教えてもらえたのでありがたかった。

 そうして、ようやくここまでたどり着いたのだ。

 そこは、懐かしい匂いのする川辺だった。それほど深くはない綺麗な水の流れる川で、これからの時期には産卵期を迎えたスラー(川魚の一種)で染まるらしい。

 互いに身をぶつけ、鱗を剥がし合いながら、それでもなお、新しく生まれ来る命に安全な場を、と必死に湧き水の流れる上流へ産卵床を作りに来るのだとイェルハルドさんが言っていた。

 残念ながらムウはその光景を見ることは無かったが、よく二人でこの川の湧き水を汲みにきたのを思い出した。

 そんな命を運ぶ川面は今、夕暮れを少し過ぎた頃の薄淡い日の残光を浴びている。

 ムウはいつかの思い出を噛み締めるようにして小さく微笑むと、さっと顔を上げた。

 そして、ようやく満足そうに川面から頭を上げた馬に飛び乗ると、急かすようにして山道を駆けた。



 ノジン村に着いて真っ先に向かったのはあの家だった。

 ひと冬を過ごしたあの温かな家のぬくもりと、そこに暮らしているであろうと思われる二人の顔を思い出しながら、ムウは馬と並んで田畑に挟まれた細い一本の道を歩いていた。

 豊かに実った黄金の稲穂が深く頭を下げている光景がどこまでも広がっている。

 季節ごとにがらりと変わっていくこの景色が、故郷でもないのになぜだか誇らしかった。

 やがて、よく見た懐かしい木戸の前までくるとムウは木戸を小さく叩いた。

 中から返事がしたのを確認してから、そっと戸を開けると夕餉ゆうげのいい匂いがふわりと全身を包み込んだ。

 途端、穏やかな記憶がどっと頭の中に押し寄せてきて、ムウは思わず深く息を吐いた。同時に肩がゆっくりと下がっていく。

(ああ、やはりここは心が休まる場所なのだ)

 ムウは穏やかに微笑みながら、突然の訪問に驚いている二人に小さく会釈をした。

「戻りました。すぐに発ちますが、どうしてもお二人にご挨拶がしたかったので寄らせていただきました。お元気でしたか?」

 ムウの問いに先に答えたのはサヤだった。言葉はなかったが、サヤは微笑みながら小さく頷いた。それだけで十分に伝わった。

 一方、エルヴィナはやれやれといった様子で膝に手を当てて立ち上がると、片方の手を突き出して小さく上下に揺らしてみせた。

「なんだね、随分と他人行儀じゃないか、今晩だけでも泊まっていきな。その馬は私が世話してやるよ、ほれ、手綱たづなをお貸し」

 エルヴィナはムウの返事も聞かずに手綱を奪い取ると、あっという間に裏の作業小屋の方へと消えて行ってしまった。

 呆気に取られながらサヤの方へと視線を向けると、サヤは一つ頷いただけで、すぐに夕餉の準備に戻ってしまった。

 暫くは囲炉裏の前でぼうっとしていたが、夕餉までにはまだ時間があるとのことだったので、ムウはずっと気になっていたあの場所へ行くことにした。

――初代月詠みが月からのご宣託せんたくだと言った、あの一節を詠んだあの場所へ。

 外へ出ると日が短くなった初秋の空はもううっすらと暗かった。夕月が本格的に光を放ち始め、星々も己の存在を主張し始めていた。



 山の上にある大きくひらけた平地は変わらぬ姿でそこにあった。

 見上げれば今宵の月が良く見える。ムウは暫くの間、無言で月を見上げ続けた。

 朽ちた月を詠んだ晩から随分と多くのことが起こったように思う。ムウはあの一節を思い出しながら小さくため息をいた。

 その時、じりっと焼けるような痛みが一瞬うなじに走った。

 咄嗟に振り返りその正体を目にした瞬間、ムウが感じ取ったのは死の匂いだった。

(逃げろ!)

 本能がそう告げた。全身がぞっと粟立ち、脳がその存在を拒んでいる。

 いつの間にか背後に佇んでいた黒衣の男を見るや、ムウは訳も分からず本能のままにぱっと駆けだした。

 足がもつれて上手く走ることが出来ない。それでも、死の恐怖から逃れようと必死に山道をもがき走った。

 道なき道をがむしゃらに走る内に地面から盛り上がった木の根に足をとられ、あっ、と思った時には目の前が地面だった。

 ムウは大きく転倒すると、緩やかな斜面を転がり落ちた。体は何度か回転したあとに平地で止まった。

 慌てて後ろを振り返り、男との距離を確認する。近くはないがそう遠くもない。

 黒衣の男はゆっくりとこちらへ近づいてきている。それはまるで、いつでも狩れるのだから慌てずともよいとでも言いたげな余裕のある歩みだった。

 一方、ムウは足に力が入らず、尻で地面をこすりながらじりじりと後退するしか成すすべがなかった。

 はっ、はっと荒く乱れた己の呼吸音だけがやけにうるさく耳に響いている。

 その時、とん、と背に何かが当たった。

 ぎょっとして振り返ると大木の太い幹が進路を大きく塞いでいた。

(立て! 早く!)

 心では大声でそう叫んでいるのに身体はぴくりとも動かない。

 そこからはまばたき一つだった。気付いた時にはもうすでにムウの正面には黒衣の男が静かに立っていた。

 知らぬ男の顔だった。なぜこうして自分が狙われているのか見当もつかない、だというのにそれを考えることすらももう出来なかった。

 頭の中に浮かんできた言葉はただ一つ。

(逃げられぬ……)

 そう思った途端、己の中で何かがゆっくりとしぼんでいくのが分かった。

 全身の力が抜けていく。血の通わなくなった箇所からしびれていくように脳はきゅっと縮こまり全ての思考を放棄していく。

 やがて、ひゅっと素早くくうを切る音と共に振り上げられた刃が見えた。

 同時に、男の瞳に反射した自分自身と目が合った。

 瞬間、雷に打たれたような衝撃と共に、ムウの脳裏に強烈なほど鮮やかに甦ったものがあった。

――牡鹿おじかの目だ。

 くくり縄に足を取られ、もうどうにもあらがえないと悟ったあの牡鹿の目がそこにはあった。

 狩られることを悟り生きることを諦めたあの目と、目が合ったのだ。

 そう思った瞬間、かっと頭が燃え上がった。

 そして、それは一瞬の出来事であった。

 何がそうさせたのかは分からない。ただ、燃え上がった頭と共鳴するように身体は勝手に動いていた。

 気付けばムウは腕を突き出していた。そう、ある一点を目掛けて。

 開かれた目は燃えるように熱い、耳は何も聞えない。

 もうそこに牡鹿の目は存在しなかった。ただそこにあるのは死に抗う生者しょうじゃの目だけであった。

 そして、ムウの突き出した手の中できらりと月の光を乱反射させたのは、短剣の柄に嵌め込まれた大小二つの月長げっちょうせきだった。


 アッカは驚いたように身をひるがえし、後方へと大きく飛び退いた。

(こやつ……)

 衣がかれあらわになった首からつっと流れた血を苛立たし気に指でぬぐいながら、大きく顔を歪めた。

(確実に仕留められる気管を狙ったのか……)

 有り得ないとでも言いたげに驚愕の眼差しをムウへと向ける。

(未だに尻を地面につけて怯えているこの男がか?)

 突き出したままの短剣はぶるぶると小刻みに震えており、今は狙いが定まっていない。だと言うのに、先ほどの一撃は狩りのだった。

 アッカは小さく舌を鳴らし、再びムウの前に立ちふさがった。

 立つことも出来ぬくせに、それでもなお戦おうと闘志を燃やしているその目が随分と気に喰わなかった。

 冷めた目でムウを見下ろしながら、アッカは再び短剣を振り上げた。

 次の瞬間、火花が散った。

 そして、刃のかち合う甲高い音が鳴ったと同時に己の刃が止まった。

 アッカは突如目の前に現れたもう一本の刃に目をむき、咄嗟に猫のように後方へと飛び退いた。

 そこからは突如現れた敵との激しい攻防戦だった。

 いくら月明かりがあるといっても、顔を認識する暇さえも与えてくれぬほど敵は手練れだった。

 短剣同士が激しくぶつかり、弾かれ、火花を散らし、時に互いの足が顔すれすれをかすめていく。

 アッカはそんな死のやり取りの中で奇妙な感覚にとらわれ始めていた。

 敵の攻撃の中に時折、懐かしい癖が混ざっているのだ。

(あり得ぬ、あり得ぬ……あり得ぬ!)

 心の内に湧き出た疑問が確信に変わろうとするのを拒むようにアッカは短剣を振りながら必死に否定し続けた。

 しかし、その想いが伝わったのか、僅かな隙を生んだ刃は、あっという間に相手の短剣に掬い上げられキンっと甲高い音を立てて宙に弾かれた。

 手の内から滑るようにして抜けていったアッカの短剣は月の光を反射しながら地面へと深く突き刺さった。

 アッカは瞬時に後方へ大きく跳躍すると、その人物と十分な距離を取ってから静かに向かい合った。

 驚愕と困惑により大きく見開かれたアッカの瞳に、月光に照らされたその人物の顔がはっきりと映る。

 その瞬間、アッカは怒鳴るように腹の底から叫んだ。

「なぜだ! なぜお前がここにいる! いるはずがないであろう! お前は死んだはずだ!」

 アッカは怯えている男を背に静かに佇んでいる人物を信じられぬ思いで睨みつけながら更に吼えた。

「答えろ! サヤ!」

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