第9話 旅支度

「もう行ってしまうの?」

 落ち着いた女性特有の柔らかな声がふわりと耳をかすめ、旅支度をしていたムウは手を止めて振り返った。

 艶のある綺麗な長い髪を片方でまとめ、纏めた先はゆったりと顔の横から垂れ下がっている。

「はい、行って参ります。母さん」

「そんなに慌てなくても……」

 彼女はそう呟きながら片手を頬に添え、心配そうな表情でムウを見つめていた。

 ムウはそんな母の表情を見ながら、心の中で自嘲した。

 親にとっては、いつまで経っても子は子なのだろうか。それともよわい三十を目前にして、異国をふらついては父親に説教を食らう我が子が特別心配なのだろうか。

――どちらにせよ、いい年をした大人が未だに心配され、親の顔を曇らせているとは何とも滑稽で情けないことだ、と心の中で苦笑した。

「以前隣国のノジン村に住む、北の地理に詳しい者と知り合った事があるのです。その者を訪ねてみようと思います」

「そう、でも冬を越してからでもいいでしょうに……」

 母は信じられないとでも言うように、ため息交じりに呟いた。

 母が言いたいことはよく分かった。この冬の厳しい気候の中、ムウは更に北を目指そうとしているのだから。


 山々に囲われたアウタクル王国は隣国を訪れるのに必ず険しい山道を越えなければならなかった。

 確かに暖かくなるのを待って出発した方が賢明である。

 しかし、ムウには暖かくなる春を待っている時間は無かった。

 なぜなら、今から訪ねようとしている人物は春になればその村を出て行ってしまうからだ。

 アウタクル王国の北方に隣接したジュゴ王国の外れに、ひっそりと集落を構える小さなその村はジュゴ王国に入る際に最初に通る村だった。

 王都から遠く離れた山深い自然に囲われて、竹細工が有名な村だ。

 以前ジュゴ王国を訪れた時に知り合ったイェルハルドと言う男は、そのノジン村の出身だった。

 イェルハルドさんの話ではノジン村の若い衆は、たいていは北へ出稼ぎに出ており、秋から冬にかけて故郷に戻ってくるという。

 雪で閉ざされてしまう前に冬支度を行い、家族と共にひと冬を越すのが習慣のようで、雪解けを合図にまた北へと出稼ぎに行くのだと教えてくれた。

 ごくまれにアウタクル王国にも毛皮や名産の竹編み細工を売りにくるのを見たことがあったが、みなが隣国のアウタクル王国ではなく、こぞって北に出稼ぎに行くのにはそれなりの理由があった。

 それは、近年急激に領土を広めているザムアル帝国の存在が大きかった。

 小さな王国を次々に飲み込み、大きく成長をみせているザムアル帝国は、都心部に行けば行くほど商いが盛んに行われており、自然の中であまり稼ぎが多くない山民にとっては、どんなに遠かろうが、どんなに家族と離れようが足を運ぶ大きな理由となっていた。

 そんな習慣のある村だ。雪解けを待っていては、北の何処に出稼ぎに出ているか分からない者を探しようがないのだ。

 ムウはそう手短に説明すると、山道用の足履あしはきに固まった油を塗り始めた。

 先の見通せない旅になるはずだ。身にまとうものは出来るだけ長く使えるように準備をしなくてはならない。昨晩のように雪が染み込んで濡れてしまうのだけは避けたかった。

「いつ発つの?」

 その様子をどこか寂しそうに見つめながら、母はムウの背に問いかけた。

「明日、早朝にはここを発ちます」

「そう……お父様がこれを貴方にと」

 母からの思いもよらぬ言葉に、ムウは反射的に振り返った。

「そんなに驚くことでもないでしょう。あの人だってあなたの事を心配しているのよ。いつも態度には出さないけれど」

 母は呆れたような、困ったような笑みを浮かべた。

「この旅でいつか貴方の役に立つだろうと」

 母から小包を受け取り、怪訝けげんそうにそっと包みを広げた瞬間、ムウは弾かれたよう顔を上げた。

「これを私に……?」

 ムウはおごそかにきらめく月長石げっちょうせきがはめ込まれた短剣と母の顔を交互に見つめた。

「闇に一筋の月明かり在り。なんじを導く光なり。汝をいざなう調べなり」

 母は月詠み一族に伝わる月唄つきうたの一節を口にしながらゆっくりとムウの傍に腰を下ろし、短剣にそっと触れた。

「この短剣は月詠み一族に伝わるとても大切な短剣です。この先きっと貴方を守ってくれるでしょう。肌身離さず持っていなさい」

 そう言うとムウに向き直り、額と額を静かに合わせて目を閉じた。

「お父様からの伝言です。大切な短剣を預けるのだ、必ず返しに来なさい。と」

 父の不器用さを前に二人はふっと笑みをこぼした。

「約束致します。真実を見つけ、必ず帰ってくると」

 沈みゆく黄金の夕陽が部屋一面を染め上げ、短剣の柄に収まった大小二つの月長石はその夕陽を取り込み、決して外へ逃がすまいと表面化で細やかな乱反射を繰り返していた。

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