003:戦況は優勢、そう思っていた
もし私に、かの文豪のようなボキャブラリーがあれば。
自分にはそれなりの学がある思っていたのだが、この時ばかりはまだまだ私は無知蒙昧なのだと感じた──ソクラテスに言わせるならば、無知の知といったところか。
カーミラの吸血から得られた快感といったらこの上なく、私の知っている言葉ではとても言い表せないほど至上のものであったことには違いなかった。
「大丈夫かい、リボン。さっきからぼーっとしている様だけれど」
「ごめんなさい、急にちょっと眠くなっちゃって」
「僕の話ってばそんなに面白くなかった?」
「い、いや、全然そんなことないわよ!」
あまりの気持ち良さに頭が真っ白になってしまっていたなんて、恥ずかしすぎて口が裂けても言えないわ。
まさか首元のキス、もとい吸血があんなに気持ちいいものなんて。
首元につけられたキスマークとも形容できるカーミラの噛み跡をさすりながら、ついそんな余韻に浸ってしまう。
結果から言えば──彼は正真正銘由緒ただしき吸血鬼であった。
こんなこと、知人に話したりしても信じてもらえないのは百も承知なのだけれど。
やはりカーミラの言う吸血はキスなどではなく、文字通りの意味合いであり、首元を差し出した私の血はまんまと美味しくいただかれてしまった。
そしてその瞬間、なぜか彼に向けた疑いは確信へと変わった。
論理的に説明しろ言われれば残念ながら私には首を横に振ることしかできないけれども、よく物語とかで吸血鬼は吸血という儀式を通して眷属を増やすという話から推測するに、さっきの吸血にも彼らモノノ怪が持つ摩訶不思議な力が働いたのだろう。
ともかく、カーミラは吸血鬼。
それは間違いない。
「えーと、あなたがどうして今日クラブに足を運んだのかっていう話だったかしら?」
「ああ、そうさ。僕がクラブに来た理由を端的に言えば、美味しい血を吸いたいからかな」
「美味しい、血?」
「そう、美味しい血。その点で言えば、今日は大成功だよ」
カーミラ曰く、若い女性の血が一番美味しいらしい。
ちなみに次に好きなのが、インフルエンザを患った人の血──ウイルスがいい感じのスパイスとなり大変美味なよう。
「でもなんでクラブなの?」
「クラブには若い女の子がたくさん集まるって聞いたからね。それもここにいる子たちはいい感じに出来上がっていて、血を飲むだけで僕もほろ酔いになれるんだ」
吸血鬼も酒には酔うのか。
さっきから一生役に立たない知識を得ている気がするわ。
「しかもクラブにいる子たちって結構みんなオープンだろ? リボンも思っただろうけれど、君ら人間は吸血をどうもキスと連想させるきらいががあるからね」
確かに。
「そういった観点からもクラブはうってつけだったんだよ。静けさが好きな僕にとって、この騒がしさだけは誤算だったがね」
なるほど。
つまり人間風に言えば、気軽にキスがしたかったからクラブに来たというわけか──こりゃあ、とんだキス魔もいたものだわ。
無害そうな顔をして、カーミラもちゃんと考えてるのね。
「騒がしいのが苦手なら場所を移さない? カーミラ」
「おや、ここら辺に落ち着いてお話ができるところがあるのかい」
ええ、ラブホっていうところがあってね──とはもちろん言わない。
もう時刻は深夜の2時を回り、宴もたけなわ。
夜の相手を求めてここにやって来た人たちなら既にカップルを作りクラブを出て、お互いに目をギラつかせてホテルの受付をすませる頃合いだ。
彼と共にベッドで夜を明かしたいと思う私にとって、そろそろこのタイミングでクラブを後にしたいのは山々だが、大人の女からはそんなことを言い出さない──だって王子様にエスコートして欲しいもの。
つまり、彼の口からそれを言い出しやすい状況を作るのが私の模範解答。
かくしてカーミラを案内したのはクラブのラウンジだった。
「ここなら防音設備も充実しているし、椅子に座りながらゆっくりできるわ」
「Wow! クラブにこんなところがあるなんて知らなかったよ」
時間が時間なだけあって、このラウンジにも数組しかいない。
そのカップルの少なさが私の焦りをより一層駆り立てるが、ここで急いでしまってはがっついていると思われかねないし、みっともない。
きっと彼との関係も一夜限りなのだろうけれど、それでも私は最後まで品のある女性を演じたいのだ。
「僕から質問してもいいかい、リボン」
「もちろんよ、なんでも聞いてちょうだい」
席に座るや否や、カーミラは口を開いた。
こうして落ち着いて見てみると、どこまでも人ならざる彼は美しい。
「どうして君はクラブに来たんだい? さっきからの慣れている様子を見るに、今日が初めてというわけでもないだろう」
いきなり核心をついた質問だ。
思わず言葉に詰まる。
そりゃあ理由といえば男漁りなのだけれど、そんな不純な動機を彼に言いたくない──まあ考えてみれば、このご時世にクラブに来る男女なんて大半はそんな理由だろうし、お酒も入っているのだから隠す必要もないのだが。
けれどもやはり、その本心を言うのは私のプライドが許さない。
「そうね、寂しさを紛らわすためかしら」
なんとなく誤魔化した。
でもこの言い方なら一見がっついているようには思われない反面、幾ばくかの欲求不満な状態であることを伝えられる。
さすが私、素晴らしい答えだわ。
「じゃあさ、リボン。君には今、特定のパートナーはいないのかい。人間は異性と
私たちの文化に詳しい吸血鬼は、そんなことを聞いてきた。
「ええ、いないわよ。これは私の性格の問題なのだけれど、ひとりの人をずっと思い続けるって苦手なのよね。それに、その人を心の拠り所にするって、なんだか依存して自立していないようで幼稚じゃない?」
答えた瞬間。
彼の穏やかだった目が、吸血鬼の鋭いそれに変わったような気がした。
間髪を入れずに聞き返す。
「カーミラにはいるの?」
「僕もいないよ。というか、僕たち吸血鬼がパートナーと呼べるような関係を他者と気付くことはないね。時に眷属を作ったりするもけれど、そこには明確な主従関係がある」
まあ、例外もあるけれどね。
意味ありげにそう呟いた。
そんなことを話しているうちに、いつしかラウンジは私たちだけになっていた。
「おや、もう結構な時間だね。確か、クラブは5時ごろには閉まってしまうのだろう? 憎き太陽が顔を出す前に早く今日の避難場所を見つけなきゃいけないし、
僕らも出ようか」
この時がやっときたわ。
吸血鬼が私たち人間に欲情するのか、そもそも彼らに性欲という概念が存在するのか定かではなかったが、この調子だとどうやら私の杞憂だったらしい。
カーミラはそっと私の体を脇に寄せ、出口へと誘う。
この調子ならホテルは確実だろうし、先ほどの吸血からしてもベッドの方も大変期待できそうだ。
「じゃあね、リボン。美味しい血をありがとう」
だからこそ。
外を出て彼から発せられた第一声に、私はとても驚かされた。
「それはどういうことかしら、カーミラ」
「どうって何がだい?」
「まだ夜は終わってないわよ。それどころか始まっていないのかもしれないわ」
彼の心境にどんな変化があったのかはわからないけれど、それを軌道修正すべく、彼の腕に胸を押し付けつつ上目遣いで言った。
必殺のコンボだ。
これで落ちない男はいない。
「そういうことかい、リボン。ごめんね、気づいてあげられなくて」
恥ずかしいから鈍感を演じているのだろうか。
カーミラはわざとらしく頭をかいた。
サラサラとした美しいブロンドヘアーからは、なんとも言えぬ心地の良い匂いが漂う。
「そう言えばクラブはそういった相手を探す場所でもあったね」
彼は言う。
捨てられた子犬を見るような眼差しで。
「だけれどすまない、僕は君の相手にはなれないよ」
直感した。
私は次の瞬間、この吸血鬼に精神を食われてしまうのだと。
「君は女性としては美しいが──人としては醜いからね」
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