002:夜は長いのだから
「どうしたんだい? 浮気現場に遭遇したような顔をして。何を驚いているのさ」
「…………!?」
思考がフリーズした。
何を言っているんだ、この白人は?
血を吸わせてくれってどういう意味だ?
これは口説き文句なのか──夏目漱石でももうちょっとわかりやすく言うだろうに。
「に、日本語がお上手ですね」
それが、彼の意図を全く理解できない私がなんとか振り絞って出した一言だった。
「それはどうも。日本の文化が大好きでね」
「失礼ですが、今、私に血を吸わせてと仰いましたか?」
「ああ。僕はまさしくそう言ったよ」
どうやら私の聞き間違えじゃなかった。
彼の相貌から察するに欧米の出身だとは思うが、そっちの方では鉄板の挨拶だったりするのだろうか。
「それはどういう意味ですか」
「言葉通りの意味だが? 僕は君の血が吸いたいんだよ」
冗談を言っているようには見えない。
見るからに好青年だし、ジャンルでいえば爽やか系。
しかも白人なだけあって中々のイケメンときた。
けれども素でサイコパスってこと?
「ああ、そうか。自己紹介がまだだったね」
「まあ、そうですけれど……」
「通りで君が警戒しているわけだ。もっとフランクに接してくれよ」
問題はそこじゃあないのだが。
私が壁を作っている理由は、もっとこう、生物として本能的に危機感を抱いているからなのだけれど。
「申し遅れたね。僕の名前はカーミラ」
彼は続けた。
その甘いマスクを私に向けながら。
「──吸血鬼だよ」
「はい?」
吸血鬼?
いよいよヤバいぞ、こいつ。
クラブには多種多様な人が集まるから時には本気で頭のおかしい奴もいるが、とうとう人外が現れやがった。
「吸血鬼って、あの、ドラキュラとかの?」
「ちょっと違うかな、正確に言えばドラキュラは人間でいう名前のようなものだからね。わかりやすく言うならば、吸血鬼が種類名でドラキュラは個体名。僕なら吸血鬼のカーミラって具合にね」
ふむ、全然よくわからない。
そもそもさっきからカーミラの言っていることが微塵も理解できでいない。
「でも吸血鬼って妖怪とかの類の──」
「そうだよ。僕たち吸血鬼は妖怪で怪物でまやかしで、そしてモノノ
当たり前のようにカーミラが言う。
もう私の耳には、今もなお爆音でフロア中に流れ続けるEDMは入ってこない。
「ところで君の名前も知りたいな。僕に教えてくれないかい?」
「え、えと、私の名前はリボン……、です」
「リボン。へぇ、変わった名前だね」
「いや、リボンは本名じゃないです。あの、その、クラブの時だけ名乗るような源氏名みたいなもので」
私はワンナイトラブをモットーにしている。
特定の人に執着するのはダサいと思っているし、その日限りの関係の方がお互い後腐れなくて
だからこそ自分の情報はあまり言わない方が都合がいいし、何よりそれが賢い生き方だと思う。
「本当の名前を教えてくれないあたり、君も中々食えない女性だね。リボン」
食えないってどういう意味だ。
性的な意味か、それとも文字通りの意味なのか?
少し身震いする。
「ところで敬語くらいはやめてくれないかい? クラブはもっと誰とでもフランクに話せると聞いたんだよ」
「ま、まあ、それは全然構わないけれど」
カーミラもまだ若そうだし、歳の差なんてたかが知れているだろう。
彼の衝撃的すぎるファーストインプレッションのせいで飲まれてしまっていたけれど、あくまでここはクラブで私のフィールド。
よく考えてみれば国は違えど男であるカーミラなんて、この私が臆する必要もなかったわね。
「確かに僕は今年で621歳になるし、目上も敬う気持ちを君ら日本人が重んじているのもわかるけれどね」
はい、無理!
歳の差どころの話じゃないわ!
いや、冷静になるのよ私──大人の女としてここで取り乱すわけにはいかないわ。
「カーミラ、何度も確認するようで悪いのだけれど、あなたは吸血鬼なのね?」
「ああ、そうだよ」
「ちなみに今日はエイプリルフールでもハロウィンでもないわ」
「そんなこと知っているさ。ほら」
言いながらカーミラは指で口の端を持ち上げた。
キラリと光る鋭利な犬歯が姿を見せる。
これが彼らの吸血器官とでもいうのだろうか。
「……いいわ、カーミラ。私、これでも場数はそれなりに踏んできたつもりなの。別に吸血鬼だって関係ない」
「Wow! リボンは日本のレディーとは思えないほど大人だね。より一層、君の血が魅力的に感じるよ」
彼の言っていることが嘘であろうと本当であろうと、大人の夜においては些細なことだ。
もちろん確かめたいことは山ほどあるけれども、やはりこの場でしつこく言及するのは野暮で私は好かない。
それにもしものことがあればセキュリティーを呼べばいいだけだし、何より、暗がりで最初はあまり見えていなかったが、カーミラの顔はどこまでも私のタイプだった──今夜は彼に抱かれよう。
結局、人肌を求めてここにやってきた私もまた、そこらにいる猿たちと根本的には変わらないのだなと思う。
「ところで私、ちょっと喉が渇いたわ。ここってば人が多くて暑いせいかしら」
服の胸元をパタパタと、そんなあざとくもわざとらしい演技で軽くジャブ。
大抵の男ならこの仕草でイチコロ、次の瞬間には自らお酒を買いに行く。
まさに英国紳士という言葉を体現したような彼ならどんな反応をするのかしらね、楽しみだわ。
「確かに同感だ。ここは暑い。けれどもすまない、僕には持ち合わせがなくて入場券についてきたこのワンドリンクしかないんだよ。飲みかけでよければ、どうだい?」
そう言って屈託のない笑みを浮かべながらレッドアイを差し出すカーミラに、私はまたもや驚かされた。
おいおい、この男は文無しでクラブにやってきたというのか?
音楽を楽しむ勢ならまだしも、こうして私に声をかけてきている時点で夜のパートナー探し目的なのは明白だというのに。
ということはつまり、下世話な話になってしまうけれども、この後のホテル代とかも私持ちってこと?
いや待て、もしかすると財布などの貴重品をロッカーに預けているから今は現金がないだけなのかもしれない。
うん、きっとそうに違いないわ。
私の経験上、そういった人も一定数いるものね。
「お気遣いありがとう。ちょうどさっきショットを何杯かしたから、それくらいの度数のお酒がチェイサー代わりに欲しかったところなのよ」
「それはちょうど良かった」
カーミラを逃すまいと機転を利かせた私は、言いながら彼からグラスに半分ほど残ったレッドアイを受け取る。
ゴクリ。
トマトとビールのなんとも言えない味わい。
「ごちそうさま。そういえばあなたは私の血が吸いたいのよね? お酒をいただいたお礼に──どうぞ」
私のでよければ。
髪をたくし上げながら、首元を彼に差し出す。
漫画やドラマから植え付けられた勝手な偏見なのだけれど、吸血鬼は首から血を吸うイメージがあったから。
「いいね、リボン。僕は積極的な女性が大好きだよ」
この時、実を言うと私はまだカーミラの言うことに半信半疑だった。
吸血鬼などのモノノ怪が実在するとはにわかに信じ難かったし、当然といえば当然のこと。
だから血を吸わせてほしいというのも、軽いキスでもさせてくれという意味合いなのだと──そう思っていた。
「それじゃあ、いただきます。リボン」
カーミラが私の腰にそっと手を回す。
カプリ。
彼の鋭い歯が、私の首元に当たる──ああ、いったい今夜の私の話は何話まで続くのだろうか。
そんなことを考えながら静かに目を瞑る。
もしかすると次で終わってしまうのかもしれない。
でも、そんなことは誰にもわからない。
だって夜は長いのだから。
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