飯を喰らう

「……あまり、収容者に共感するなよ?」


 机の上で腕を組み、施設長は唸るようにそう告げる。苦悶の表情だった。

 施設長室に呼び出され、聞いた最初の一言だ。真意を掴みかねて数秒黙った僕の耳に、さらに言葉が届く。


「例の男が服装を正したと聞いた。徐々に価値観をアップデートしていると思えば、喜ばしい事じゃないか。我々の保護によって、彼は命を長えさせられるんだ」


 僕は頷く。彼が今も生きている事は、僕にとっても喜ばしい事だ。僕の熱意が通じたのか、彼が迫り来る死を直視したのか。どちらにせよ、この状態が続けば彼は収容状態を解かれるだろう。晴れて自由の身だ。


「その割には、君は随分と浮かない顔だ。彼が時代遅れの価値観を捨てた事が残念か?」

「……いえ、そんな事は」


 施設長は途端に苦々しい表情になる。指でコツコツと机を叩くと、ゆっくりと口を開いた。


「旧世代の人間が収容されている理由の一つに、我々の世代に悪影響を及ぼすことを避けるというものがある。下手な共感などして、価値観を逆行させるなよ?」


 僕は声を張り上げて返事をした、つもりだった。イエスでもノーでもない、曖昧な言葉を漏らすつもりはなかったのだ。


    *    *    *


 トレンチコートを着ていない彼を見るのは初めてだった。薄いブルーのシンプルなガウンを羽織り、短い黒髪を露出させた姿は、普段より十数歳ほど年齢を重ねたように見える。


「どうですか、調子は?」

「完全食とかいうメシも、意外と悪くないな。栄養がしっかり採れるってのも今時だ。今まで昔ながらの味に拘ってたのが馬鹿みたいだよ!」


 返却されたランチプレートは空だ。完食すれば成人男性の1日分のカロリー等を摂取できるはずなのに、男の顔色は優れていない。むしろ食事を変える前より頬がやつれているのだ。

 僕は慌てて食堂で配膳中の固茹で卵を一つくすねると、水の入ったボトルと共に小窓に投げ入れる。ヒビの入った卵の殻が床に散乱したが、男が震える手で掴んだようだ。


「気を遣っているつもりですか? 下手な嘘を吐かないでくださいよ!」

 視界に入りそうになった床の吐瀉物から目を背け、僕は声を荒げた。

「口に合わないなら、食事の種類くらい調整できます! 少しづつ変えていくって言ったのはあなたじゃないですか!」

「……笑ってくれよ。自分の意思で引き金を引くことができない腰抜けは、時代遅れの銃を捨てることさえもできなかった。頭じゃわかってたんだが、体が拒否すんだ。なぁ、笑ってくれ」


 彼の瞳は濁っていた。自嘲じみた笑みを浮かべながら、剥いたばかりの卵白を頬張る。揺れる視線がその断面を捉え、男は哄笑した。

「ははは、黄身なんて片寄ってやがる。鍋の底で転がらなかったんだ。……まるで、俺だ」


 僕は気づく。彼は今まで変わらなかったのではなく、変えられなかったのだ。時代遅れであろうしたのか、時代遅れでしかいれなかったのか。

 どちらにせよ、彼の価値観を構成する芯は風化して折れかけている。強くあろうとした男は、自らの矜恃に殉じることさえできないのである。


「もっと若ければ……頑なにならなくて良かったのにな……。もっと賢く生きて、時代の波に乗れたんだ……。いつだってそうなれたのに、俺が強情な馬鹿だから……」

 力なく笑う男は、痙攣めいた体の震えを止めることさえ出来なくなっていた。病の進行だ。彼の独白が形を変えた懐古であったことに気づき、僕は呆然とスイッチを押した。


 ブザーが鳴り響く。ドクターはもうじき来るらしい。僕は徐々に下り続けるシャッターの迅速さを恨んだ。

「……なぁ、兄ちゃん。聞こえてるか? 預かってもらってた煙草とライター、処分しておいてくれ。今じゃもう誰も必要ないだろ? 棺に入れたら爆発しそうで怖いしな……!」

 頷くことしかできない。脳裏に浮かぶ無数の言葉はどれもミスマッチで、僕は口をパクパクと動かし続けている。

「……が……」

 ただ一つ浮かんだ言葉を、僕は声も無く発していた。

「そんなこと言われる筋合いなんて……。俺こそ言いたいくらいだ。……しかった、な」


 マイクの接続が切れた。耳鳴りが聞こえるほどの静寂と、静かに閉まったシャッター。僕は壁を殴りつけ、来るはずのドクターのことも考えずに部屋を出た。

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