引き金を引く

「部下に慕われた上司だったと自負しています。あの頃は、みんな私の誘いに喜んで参加していました。最初は揃って生ビール。飲みニケーション、という奴ですな。えぇ、楽しかったんです。あの頃は、本当に……」


 アクリル板越しに過去を語り続ける男は、白髪混じりの頭をぶんぶんと振り続けている。その語りには確かな熱があった。


「それなのに、近頃の若者は本当に惰弱なのですよ。貴重な先達とのコミュニケーションの機会を……私の部下はあんなにも笑顔だったのに……」

 男は目を瞑り、輝かしい栄光を思い起こそうとしているようだ。声にならない声を洩らし、頭を振る速度は徐々に加速していく。

「……メだ。何が、なニが自由だ? 年長者ニアわせるのが常識ダろ……?」


「……手遅れですね。懐古の症状が出ています。自我消失は時間の問題かと」


 神妙な面持ちで語るドクターの忠告に従い、担当していた先輩は手元の端末を操作した。厚いシャッターがアクリル板を遮るようにゆっくりと下ろされ、集まった職員は黙祷を捧げる。最後に見えたのは、唾を飛ばしながらヘッドバンキングのように頭を振り続ける老いた男の姿だった。

 部屋に仕込まれたマイクの電源が落とされ、もうこちら側に男の唸り声は届かない。あとは命が尽きるまで、延々と同じ行動を繰り返し続けるだけだ。先輩は眉根を寄せ、天井を仰いだ。


「しっかりと眼に焼き付けたか? あれが末期症状だ。旧時代の価値観に囚われ、停滞した者の末路だ。我々は、ああいった物から人々を守るために活動するのだよ」


 施設長の表情は険しい。シャッターが閉まったままの部屋が両脇にある通路を並んで歩きながら、僕は心の奥に沸いた妙な不安を腹の奥に飲み込み、喉に力を込める。

 ゆくゆくは僕が担当しているトレンチコートの男も、あの男のように自我を失うのだろうか? 強いエゴで押さえ込んでいるだけで、彼が保護対象から外れて自我を失うのも時間の問題だ。それまでに、あの拘りを止めねばならない。これ以上、くだらない価値観の相違で人が消えるのを見たくないのだ。


    *    *    *


「ギャング映画って見たことあるか?」

「……すいません、不勉強で」

 アクリル板を隔てて、トレンチコートの男は笑う。唐突な話題提供だった。

「一度見てみな。俺はあれで人生哲学を学んだんだ。欲望と硝煙の中にある、本当の強さを教えてくれる……」


 さほど興味は惹かれなかったが、このまま話を終えるのも忍びない。僕はイヤホンを調節し、聞いているような素振りをした。


「ギャング映画の華は、抗争だ。拳銃を使った命の獲り合いだな。銃は男の強さの価値観を変えたんだよ」

「……価値観を変えた?」

「それまでの戦いは、より力の強い者が勝つ世界だった。鍛えた肉体か、運動の才能が勝敗を分けたんだ。その価値観は、銃の前ではただの飾りなんだよ。引き金を引けるかが重要になる、意思と心の世界だ。女子供でも殺ろうと思えば誰かを殺れる。そんな中で、男の価値は強い意志を持つことなんだよ……」


 剃り揃えられた顎髭を撫で、男は感慨深そうに語り続けている。僕はいつの間にか、その語りに耳を傾けていた。


「あの映画の主人公は、格好よかったよ。ガキの頃に親父に酒瓶で殴られた時、啖呵の切り方をそれで学んだんだ。矜恃の為なら面倒を見てくれた親も始末する。それが真の男の在り方だ、ってな」

「まさか、父親を……」

 男は目を伏せ、ゆらゆらと頭を振る。嫌な記憶を思い起こすように、眉間に皺を寄せながら口を開いた。

「親父はその後病気でくたばったよ。矜恃も何もない、下らない最期だった」


 本当に下らない、と男は繰り返す。保護されている現状に納得していなさそうな理由の一端を想像し、僕は妙な焦燥感に駆られた。冷静であろうとしていたのに、吐き出すように言葉が次々と産まれるのだ。


「下らないのは、そっちじゃないですか? もう矜恃で生きる時代は終わったんですよ。順応して、変わっていくべきなんですよ」

「……悪いな、矜恃がないと俺は俺じゃなくなるんだよ。奪われたら、それは無意味な人生だ。ただ生きてるだけだよ」

「ただ生きてるだけ? 何が悪いんですか。人生に意味がなくても、価値はあります。アイデンティティがなくても、あなたはあなたです。……これ以上、人が消えるのを見たくないんですよ」


 感情のままに言葉を吐き捨ててしまったことに気づき、僕はフェードアウトするかのように口を噤む。やってしまった。数時間前に見た男の最期を見て、何かが揺らいでいるのかもしれない。


「……すいません。冷静になります」

 男は天井を仰ぎ、黙りこくったままだ。マイクが拾う空調の稼働音が途端に沈黙を際立たせ、僕は後悔を隠しきれない。


「……もう、そんな時代じゃないんだよな。立ち止まって、空に唾吐き続けて。今じゃこんな場所で強情に生き続けてる。……悪かったな、こんな面倒くさい奴の担当で」

「……いや、その」

「やれるだけ、やってみるよ。すぐに捨てる事は出来なくても、少しづつ変えてやるさ。それが“今の”普通の生き方、なんだろ?」


 電気シェーバーを握り、男は唇を歪めた。笑顔、と呼ぶにはいびつすぎる表情だった。

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