ハードボイルド・リビングデッド

髭を剃る

「何処かの国では生でコレを食うらしいが、美味いのかねぇ。メシにするには歯応えが無いし、腹も膨らまないだろう?」


 金属製のランチプレートに置かれた卵の殻をゴミ箱に流し入れ、男は呟くように尋ねる。アクリル板を隔てたその声がマイクを通して僕のイヤホンに届くまで、それが朝食に関する世間話であることに気付かないほどのトーンだ。


「……それは、遠回しな食事のリクエストですか?」

「特に他意はないさ。それに、慣れたこの料理で十分なんだよ。頭の固い俺に似合った固茹で卵。これ以上何か求めるなんて、囚われの身には贅沢すぎる!」

「……あくまでも、保護です。勘違いしないでください」


 年代物のトレンチコートにボルサリーノ帽を着こなした男は、保護されている人々の中でも手が掛かると職員の間で評判だった。経歴の浅い若手である僕が担当するには荷が重い相手だが、他に適任がいないと施設長が言うなら仕方ない。


「なァ、酒は……」

「そろそろ諦めてください。病に冒されている身なんですよ?」

「解ってはいるんだがなァ……。俺が俺であるために、スコッチとスキットルは手放せないんだよ。ガキの頃から、親父の飲み干した酒瓶を枕にして眠ってたんだぜ?」

 保護されている男は伸びたままの顎髭を煩わしそうに撫で、苦笑する。配られた電気シェーバーは机の上に置かれたままだ。

「生活を改めてください。そうすれば、進行は抑えられる筈です。マイクロチップの内蔵手術に同意していただければ、日々の体調管理も……」

「そうして、どうなる? 隣の部屋のやつは昨日から話が通じなくなった。機械の使い方も知らないような男だよ。マイクロチップとかいうやつを入れた2日後に、ずっと手元で機械を弄りながらブツブツ呟いてんだ。そいつの癖とか拘りは全部綺麗に漂白されて、今いるのはただの抜け殻だ。自我の無い、肉の塊だよ」


 隣は手遅れか。直に担当者が来て、その人物は保護対象から外されるだろう。救えなかった後悔は、直接関わっていない僕にも鋭く刺さる。


「だから、俺は俺であるための生き方を変えるつもりはない。外にいるような自我のない連中は、自分の強い芯が無いから負けたんだ。俺は抗うよ。負けない。強くあるんだ、俺は……」


 逆効果、だとは言えない。旧時代の価値観に囚われた人々がかかる奇病への特効薬は、現代の価値観にコミットすることなのに。

 保護している人の生命を諦めたくはないが、ここまで頑固な相手に何か言っても無駄な気もする。“老害”という古い言葉が脳裏に浮かび、僕は邪念を振り払うように首を振った。


 アクリル板下部の小窓から返却されたランチプレートを片付け、洗浄槽まで続くコンベアの電源を入れる。一見無駄に見えるこの過程には、きちんと食事を摂っているかを職員が確認する意義があるらしい。

 施設が推奨する食事を好む人は少ない。人間が生活するために必要不可欠な栄養素を兼ね備えた完全食が現代の主流ではあるものの、やはり味気ないという声が多いのだ。そのため、慣れた昔ながらの料理も選択肢に入っている。徐々に慣らしていくのだ。

 トレンチコートの男は、施設に保護されてから完全食を一切口にしなかった。口に合わない、と繰り返し、水と干し肉を求めていたらしい。当時の担当者は厄介だっただろう。


    *    *    *


 国内人口の20%を占める旧年号世代の人々に奇病が流行し始めたのは、半年前のことだ。本来なら旧世代と新世代の間に大きな世代間の差はなく、稀に細かな価値観の違いから生まれた衝突が起こる程度だった。旧世代の人々が新しい価値観を学び、意識のアップデートを定期的に行っていたからだ。

 その状態が奇病により、崩れた。価値観の変更を怠った旧世代の人々が自我を失い、命を失うまで延々と同じ行動を繰り返すようになったのだ。

 事態を重く見た政府は、発症の可能性がある人々を収容して予防する施設を設立した。それがこの施設、『新時代理念研究所』の始まりだ。


「……酒も煙草も取り上げられた生活なんて、考えたこともなかったな。あのオイルライター、返してもらえるんだろうな?」

「シガレットは、もう流行っていませんよね? あれこそ旧時代の産物でしょう。寿命を縮めるだけじゃなく、周囲に迷惑もかける。何故そんな物を……」

 男はバツが悪そうに笑った。

「兄ちゃんは吸わないのか。最近の子はあまり好きじゃない、って本当なんだな。昔は男のステータスだったんだぜ?」

「ろくな時代じゃなかったんですね……」

「……はは、そうかもな。今よりは世界が雑で汚かったよ。強くならなきゃサバイブできない、そんな時代だ。煙草は俺たちのステータスだった……」

「髭、剃らないんですか?」


 途端にかつての時代を思い起こそうとする男に、僕は話題を変えようと足掻く。『懐古』は症状の進行を示す兆候だ。さらに進行すれば、有りもしない過去の美談で現代の価値観に泥をかけようとする。そうなれば、自我の喪失は時間の問題なのだ。


「電気シェーバーじゃダメなんだよ。剃刀カミソリがあれば満足するんだが……」

「シェーバーの方が便利ですよ? 血も出ませんし……」

「アレは剃った気がしなくてな。それに、慣れれば肌を傷つけないやり方も身につく。クリームは要らないから、用意してくれないか?」


 僕は逡巡した。剃刀とはいえ、刃物であることは確かだ。万が一自死の道具にでもされたら、責任は免れないだろう。第一寝覚めも悪い。だが、渡さないとすれば男の髭は伸びたままだ。文明に逆行するようなそのスタイルは、現代的ではない気がする。

 二律背反の思考の果てに、僕はとある妥協点にたどり着く。


「上司に安全カミソリのレンタルは可能か相談しておきます。それに慣れたら、徐々に電気シェーバーも使ってみてください」

「……いい奴だな、兄ちゃん。恩に着るよ!」


 やはり、この男は厄介だ。頑固者で、面倒で、心から笑うと奇妙な魅力がある。

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