カンダタ、生前 9

妖女だ、惚れたら終わりだ、とか。最後は食われるぞ、と聞かせていたが、なんの障害もなく、人食い塀を登り超えてしまった。久々に外の空気を吸う。

花々に囲まれた季節外れ空間にいたせいか、秋の風がひどく冷たく感じた。

薄い単衣一枚では冬は越せない。本来なら冬支度をして、襤褸を纏い厳しい冬を凌いでいた。

持ってきてしまった赤い珠玉を懐に仕舞う。冷え切った指先を吐息で温めるもその温度はすぐに奪われる。幾度か人食い塀の方を振り向いたが、物言わぬ古びた壁は淡々と紅柘榴の存在を隠す。

沈黙した塀は「彼女は幻だったのだ」と無言で告げている。

そんなはずはないのだ。赤い珠玉は歩く度に揺れている。

そして、俺も生きている。死にかけだった俺が今こうして2本の脚を使い、雑木林を掻き分けている。

いや、むしろ幻だと思い込んでしまおうか。赤い珠玉を売り払い、紅柘榴の記憶を失くしてしまえばいい。

そうだ、前向きに考えよう。こんなに立派な珠玉を手に入れたのだ。これがあれば厚手の半纏が買える。冬の間、震えてなくて済む。

冬の間だけではない。当分、飯には困らない。飢えに苦しまなくていい。

そうだ、そうしよう。そうと決まればこれを売りつけて。

待てよ、と。俺は馴染みの質屋を前にして躊躇う。

赤い珠玉を手放せば紅柘榴と過ごした夢の証が消えてしまう。俺は自らの幸を捨てようとしている。

それがどうしたと言うのだ。あれは夢だったのだ。夢を持ってても腹は膨れない。

「よう、赤眼。久々だな」

せせら笑いながら話しかけてきたのは質屋の老爺だった。

「今度こそ、くたばったかと思ったんだがな」

俺が斬り捨てられた話はすでにに広がっているようで、質屋の老爺はそれを笑っている。

「で、何を盗んだ?」

この老爺は俺より勝っているのだと思っている。自分には店があり、食うに困らない。俺がいくら盗みを働いても自分が座る上座には届かないのだと勘違いしている。俺がその気になれば老爺の関節を外し、首を折れるとも知らずに。

「なんもねぇ」

低く重い声を発し、質屋を去る。

「お?収穫なしかい?もうすぐ雪が降るぞ?今年の冬はどうするんだ?え?凍え死ぬか?」

去っていく俺の背中にしつこく嫌味を送る。

呆けた老爺の独り言だ。気にするな。

俺は足を進める。

結局、赤い珠玉を売れなかった。未だに紅柘榴との繋がりを求めている。

懐が重くなっていてもそれで飯が食えなければ立派な珠玉も石ころと変わりない。

繋がりを捨てるか云々よりもまず、懐よりも軽くなった空きっ腹をどうにかするべきだろう。

港の市がまだ閉じていないはずだ。そこで菜饅頭でもくすねて隠れ処へ行こう。

目立つ赤眼を前髪で隠し、潮風が吹く海に足を進める。あそこは俺の住処にも近いのだ。

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