カンダタ、生前 8

体調は良くなったわけだが、床磨きは俺の日課となっていた。坊主の真似事をしたいのではなく、ただ飯を食わしてもらうわけにはいかなかった。

これがなかなかの重労働で、平屋の屋敷は1人で暮らすには広すぎる。部屋数も多く、時間もかかる。その分、井戸と屋敷を往復する回数も多い。これを1人でこなしていたのだから紅柘榴には感服する。

俺が何度目かの井戸に来ると紅柘榴が井戸の傍で朝餉の用意に使う水を汲んでいた。

井戸底から引き上げたばかりの冷たい桶に手を入れる。紅柘榴の手に握られていたのは水滴で煌めき、赤い輝きを放つ立派な珠玉だった。

手の平ぐらいの大きさだ。俺のような身分ではお目にかけることはない。盗人としての本性が赤く輝く珠玉に胸が高鳴ったのは確かだ。

紅柘榴は俺に気付くと、さっと赤い珠玉を袖の中に隠す。緊張で張り詰めた彼女に俺は慌てる。

「俺は盗人でそれは立派な珠玉だが盗ろうとかそんな思惑は決してない本当だいや確かに目は眩んだが一瞬だほんの一瞬」

ここまで早く舌が動かせるとは俺自身も思っていなかった。しかも、半分は嘘だ。今も頭の片隅ではそれを手にする算段を巡らせてしまう。

2人の間に沈黙が降りた。紅柘榴に嫌われそうになる恐怖を味わいながら俺は沈黙を守る。破ったのは紅柘榴だった。

紅柘榴はゆっくりと袖から赤い珠玉を出すと俺に突きつける。余りにも唐突でぶっきら棒に差し出されたのでたじろいだ。

「井戸に落ちてたの。あげる」

見え透いた嘘だ。冷めた言葉が明確な拒絶を示している。

「落ちてた?そんなわけないだろ」

急変した紅柘榴の態度に思わず責めるように言い返してしまった。昨日も今朝起きたときも微笑んでくれていたのに今は冷めた言葉が俺を刺してくる。

「なんだっていいじゃない。あなたは泥棒なんでしょ。用が済んだら帰ってよ」

紅柘榴も負けじと声を張り上げて珠玉を持たせようとする。拒絶として表れる冷めた言葉に殴られ、愕然となった俺の手に赤い珠玉が収まる。

「俺が目論見を持って人食い塀に入れてきたと思っているのか。金銀目当てで」

「荒らされて襲われる前に切っておきたいのよ」

「だったら!時に見殺しにすればよかっだろ!」

さらに上の声量で怒鳴ってしまった。理不尽な罵声はいくらでも耐えられる。言い返さず、争いを起こさない。生きる術の1つだ。

なのに、紅柘榴のあからさまに尖った言い方に堪えるよりも先に腹底で煮え滾った感情を吐き出す。

「なんで助けた!俺はいつ死んでもよかったんだぞ!」

勢いだけで吐き出された思ってもいない言葉。後先考えない言動をだった。紅柘榴は目を丸くして凝視する。

無垢な瞳で春のように笑う紅柘榴が今、目前の脅威によって後退りをしている。

湧いた激情は萎み、紅柘榴への執着は一瞬にして剥がれた。

「悪かった」

小さく弱々しい一言を残して踵を返す。

あっさりとして悔恨残る別れだった。

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