カンダタ、生前 10
俺の住処は人の多い港から離れた崖の割れ目からひん曲がった松の大樹に隠れた入江の奥である。
昼間は洞窟で出入りも可能だが、潮が満ちると出入り口は沈んでしまう。ただ、最奥までは水没せず、洞窟の天井には肩幅ぐらいのと穴がある。そこを登ればまた地上に出れる。姿をくらますには絶好の場所である。
難点と言えば、この季節では洞窟で暮らすのは無理がある。雪で凍えた海風が容赦なく体温を奪う。暖かい菜饅頭も冷めてしまった。
冬を越す準備をしなければならないが、その日に限って気力が湧かない。冷めた菜饅頭も口にできなかった。
岩場の上で身体を横たえ、目を瞑る。
日光も差し込まず、海からの北風は無慈悲だ。岩の窪みに溜まる潮水は喉を潤さず、腹も満たさない。
日が昇っている時でも僅かな光しかない洞窟内だ。夜になればそこは黒一面の闇になり、俺自身の輪郭さえも目視できなくなる。
暗闇の中で自身の指を眺めているも、そこにあるはずなのに黒一面の世界はそこにないと錯覚させられる。
そんな感覚のまま意識を漂わせていると俺の身体は闇に溶けてしまったのだと妄想する。
ありえないとわかっていながらそんな妄想に心身を侵され、俺はまた闇に心を奪われる。
肉体から流動物になった俺に残るのは誰の記憶にも残らず消えてしまう恐怖だった。寒さと恐怖に耐え忍び、ごつごつとした岩の上で寝返りをうつ。すると、片腹にあたる丸い個体があった。
すっかり忘れていた。俺は目を閉じたまま懐に仕舞った赤い珠玉を手に取る。
そこに温度があるはずがないのにどこからが春の匂いが漂ってきた。暗い闇の中で赤い光が灯る。
目蓋を上げてみると暗闇しかない洞窟に赤い珠玉が煌めいていた。
「立派な珠玉だ。その名前を言っているかい?」
眺めていた赤い珠玉の向こう側に遊女の姿が映る。珠玉を握りしめて懐に戻す。
遊女は金糸の刺繍が入った虫襖色の織物を着こなして岩肌の壁に凭れ、悠々と煙管を咥える。随分と懐かしい人が現れた。
「あんた、死んだはずだ」
彼女が吐く煙の匂いを思い出しながら俺は静かに言った。
「失礼な。現にここにいるじゃないか」
幽霊を前にしても俺は冷静だった。
「化けてきてまで何しに来たんだ?恨みを晴らしに来たのか?」
「おかしなことを言う。お前を恨む理由がどこにある?」
くつくつと笑う彼女に胸が痛む。俺の指先は赤い珠玉に触れており、遊女を前にして別の女のことを考えている。それでいてその女にも嫌われていても尚、想い焦がれているのだからどしがたい話だ。
「いつか話していたな。屋根のある住処で伴侶を娶り、子を抱えるとな」
「忘れたよ。子供の夢だ」
「あたしは覚えてる」
恥ずかしいとも言える昔の発言を暴かれた気分になり、いたたまれなくなる。
「あたしが教えた文字はどうした?歌は?忘れたか?」
「忘れるわけない。あんたから教わったものは何一つ忘れていない」
遊女は満足そうに頷く。相変わらず、何を考えているのかわからない人だ。俺を好いていると言っておきながら、俺が別の女に夢中になっていても笑っている。
「いい娘じゃないか。何が気に食わない?」
「俺は、別に。あっちが嘘を吐いたんだ。何か隠してる」
態度の変わり様からそう解釈する。いや、単に嫌われているだけかもしれない。
「昼夜問わず看病したのに? お前が何かしたから嫌われたんじゃないのか?」
俺は襤褸の中で小さく蹲る。責められている子供のようだ。
「知らねぇよ」
「それで、めそめそと戻ってきたのかい」
「泣いてない」
「ふられたらきっぱりと忘れればいいものを、粘着質な男だねぇ」
「揶揄ってるだろ」
遊女はくつくつと笑い、煙管を食むと俺に向かって煙を吐く。
「めそめそとじめじめとしているなら尚更、文を書け。今ならいいのが書けるぞ」
一層強く赤い珠玉を握り締めた。自信がない、あるはずがない。俺が願っていても訴えても、その言葉が届く事はなかったからだ。
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