とある生徒の終幕 10
不思議な体験だった。
現実であるはずなのに夢の中にいるような虚ろさがあり、夢の感覚があるのに意識がはっきりとしている。
台所に立つ母に話しかけても、触れようとしても、僕の声は届かず僕の手はすり抜けた。
私がこの現象をすんなりと受け入れられたのは人生そのものを捨てていたからだ。
長野先生はその状態で学校へ行ってみるいいと勧めてきた。目論見が読めない男の推奨を受け入れるのは気が進まなかった。だからといって行きたい場所もなかった。
もう、人生そのものを諦めているのだ。今更私に何が起きても悲しみも怒りもない。私は長野先生に言われるがまま学校へと向かう。
梅雨入り前の夕暮れは5月の暑さを僅かに残して太陽を沈ませる。茜空と同じ色の校内。私がついたのはクラスでも文芸部でもなく、演劇部の部室だった。
あんな問題が起きたと言うのに演劇は去年と変わらない日常を送り、顧問の厳しい叱責を生徒たちが聞き、美術チームが道具作りに励む。
ほんちゃんの自殺がなかったような振る舞い。しかし、湧き上がる感情はなかった。私が埋める虚無は虚無のまま、無気力さを増す。
長野先生の言う通り、憎しみなくして人は生きていけない。ほんちゃんが自殺したその日に私の心も死んだのだ。
演劇部員は私を認識せずに1日の平穏を終わらせようとしていた。その中で1人だけ、平穏の輪から外れた者がいた。ほんちゃんの指導係をしていた桜尾 すみれだ。
部室の片隅で黙々と作業していた。3年生だと言うのに後輩も同級生も顧問でさえも彼女を腫れ物扱いして関わろうとしない。
ほんちゃんの死因は彼女にあるのだから孤立するのは当然だろう。
長野先生はこれを伝えたかったのか。桜尾 すみれの立場を私が理解したとしても広がるものは変わらない。
疑問を持つとしたら、演劇部の空気だ。彼らは彼女と同じ罪を背負っている。だというのに、自身の罰を桜尾 すみれに押し付けて平穏を過ごす。
長野先生は復讐と言っていた。だからどうなるというのか。ほんちゃんの身体は潰されて、火葬されて、骨となった。逆戻りができるのなら神にでも悪魔にでも魂を売っている。
演劇は休憩に入り、桜尾 すみれは逃げるようにして部室を出る。私も深くは考えず、彼女についていく。
桜尾 すみれの逃げ場は誰も来ない機械室前の階段だった。彼女はそこで嗚咽を堪え、独り言を呟いていた。
涙を流しては肩を震わす後ろ姿に私は僅かな熱を帯びた灯火を宿した。何もない真っ暗闇の虚無に燈る光は決して美しいと言える類のものではなかった。
「なんで、私が、こんな目に。悪くないのに。私は悪くない」
燈る火は蝋燭のようなもので、吹けば消える程弱々しい光だった。
「ちゃんと指導していたのに、嫌なら辞めれば良かったじゃない」
彼女が呟く度に蝋燭の火が強く激しくなるの実感した。
「周りも一言、私に注意すれば。私だって直したのに」
こいつはさっきから何を言っているんだ。ペンキをかけたのは誰だ?心を歪ませたのは誰だ?桜尾 すみれお前じゃないか。その独り言は誰に対する言い訳なんだ?
上下の奥歯が噛み合ってギリギリと鳴る。
あぁ、この言い訳は演劇部全体にあった。「自分は悪くない。桜尾 すみれが殺した」罪悪感を押し付け合う。愚劣で、卑しい人たちだ。
彼女の首を絞めようとしても実体を持たない身体では掴めない。1人の息を止めても意味がない。
ほんちゃんを殺したのは1人だけではない。叩かれる姿を傍観した演劇部員、顧問。
それに絞殺するだけでは足りない。卑劣な人間には卑劣な死に方が相応しい。
休憩が終わり、涙を拭った桜尾 すみれが部室に戻る。そして、入れ替わるように現れたのは長野先生だった。
「闘志は燃えたかな」
今なら長野先生の目論見がわかる。
復讐を餌にして無気力だった私を釣ろうとしているのだ。
それでも構わない。私はすでに餌に食らいついた。放しはしない。
それが破滅に導いたとしてもそれを望もう。なぜなら、私も卑劣な人間の1人なのだから。
そして、私は悪魔に魂を売った。
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