魂のプログラム 25
頭がおかしくなりそうだった。血の沼が脚を遅らせて、重なり追い詰める声があたしを追い詰める。
一本の逃げ道しか残されていない廊下の中、出口の見えない暗闇の中でひたすらに走る。罵倒は続いていた。
「卑怯者!卑怯者!」
「頭おかしい!」
「嘘つきめ!」
「愛してるわ」
あたしの脚を止めさせたのは懐かしい母の声だった。
「ママ?」
久しく呼んでいなかったその名前を呟いて振り返る。
当然のように、そこに母はいない。母の声を真似た鬼があたしを押し倒し、鋭く尖った牙があたしの目前に迫る。けれど、鬼はあたしを食おうとしなかった。
「瑠璃、いい子ね、自慢の子。愛してるわ」
鬼の形相で囁く母の声は優しく、捨てたはずの暖かさを思い出させた。
「可愛い瑠璃。ホットチョコレートを飲みましょう。とろみのあるチョコレートにナッツを入れて、あなたの好きなコンフィも入れましょう。3時のテーブルでビスケットと一緒にあたしたちだけの女子会を楽しみましょう」
よく覚えている。幼いあたしは母との菓子作りが何よりの楽しみだった。母と二人、コンロの前で「いい匂いね」と言って笑い合う優しい記憶。ビスケットとホットチョコレートを食べて「おしいね」と言い合う記憶。
あたしが失った記憶。愛に満ちた日々。でも、今のあたしには必要ないものだ。
「あんたは母親じゃなかった」
白糸を指に挟み、黄色い目に突き刺す。どんなに母の声を似せても鬼は鬼なんだ。もう惑わされたりしない。
片目を失った鬼はもう誰の声真似もしなかった。金切り声で痛みを訴えて、あたしから離れるも、その形相は怒りの色を見せる。
今度こそ牙はあたしを食らうと向けられて、倒されたままのあたしは尻餅を尽きながら後ろへと後退する。
「ハク!」
無意識にその名を呼ぶ。なぜか確信していた。ハクは近くにいる。鬼はあたしへと近づき、大きな顎を開く。
「ハク!」
もう一度、叫ぶ。
そうよ、いつだって、あの子は近くにいた。
「ギャアアア」
あたしの強い呼びかけに答えるみたいにもう一つの金切り声が聞こえてきた。
血沼の底から這い出たハクは鬼の牙が届く前にあたしを拾い上げると逃げていく。
鬼は追っては来なかった。その理由をあたしたちは推測できない。もしかしたら、この状況を作った光弥の単なる気まぐれなのかもしれない。
「もういいわ。降ろして」
走り続けていたハクを止めて、あたしは白い肩から降りる。
「で、あんたはどこからでてきたわけ?」
あたしの視認が正しければこいつは床から生えてきた。走って跳んでとかではなく、下からきた。
ハクは首を傾げてあたしを見る。やっぱり、わかっていないみたいね。
まぁ、あたしも水の中でもがいていたら、いつの間にかこの地に手足をついていたわけだし。
「さて、ハクも来てくれたし、あとはカンダタだけね」
するとハクは嬉しそうに飛び跳ねて、尾を振りながら落ち着かずにあたしの周りを駆けまわる。鬼より犬に似ているわね。
「やっぱり、理解できないよ」
再び聞こえてきたのは光弥の声だった。
「自分本位の君が友情でも愛情もないのに、なぜそこまであの男に執着するんだ?」
挑発でもない、ただの疑問符がついた質問だった。
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