糸と蜘蛛

空の穴 5

　退けて鉤爪から逃れようとしたけれど切っ先があたしの片腕を引っ掻いて衣服と皮を割く。

　バランスを崩したあたしは尻餅をついて回避の術をなくす。鬼にとって絶好の機会に違いはなかった。けれど、鬼の腕はそれ以上伸びなかった。そこには躊躇いがあった。

　その間にカンダタは鬼の腕の上へと着地して細くも丈夫な鬼の腕は高さ10ｍから落下した成人男性の重さに耐えられず、ぽっきりと折らされた骨は内側から皮を引き伸ばして裂く。

　陰から姿を現さなかった鬼もその重さに引きずられるように光のもとに晒されてその眩しさから目を瞑る。無防備になった鬼の頭をカンダタは持ってきた煉瓦で殴り殺す。

　砂だらけのベランダに赤色が混じって鬼は静寂の一部になった。

　「腕は？」

　ひとまず、安心すると腕の傷を気にする。

　腕は掠り傷でカンダタが殴り殺している間、白糸で縫い付けておいたので血も止まった。

　「いらない心配よ。それにしてもあっさりしてたわね」

　鬼にしては弱かった。捕まえるチャンスもあったのに頑なに光の下に出ようとしなかった。

　「光、だと思う。空の穴が近づいて強くなった。俺も少し頭痛がする」

　「まぁ。光の下に行くんだから滅入るわね。頭痛ほどではないけど」

　空の穴が鬼を弱体化させるならハクは平気なのかしら？

　白い隣人に向いてみると頭痛にも気怠さにも悩まされていない呑気なハクがそこにいる。心配事はなさそうね。

　「光が苦手なら陰を避けていけばいいのよね」

　「いや、そうでもない、かも」

　鬼がいないなら脅威となるものはないはず。なのに、カンダタの顔は陰り、1つの懸念を告げる。

　「遠目だからよく見えかったが、魚が泳いでいた。空中に」

　今一な説明ね。空中で魚が泳ぐ。その状況を空想してみる。

　魚が空中でふよふよと風の気ままに泳ぐというのは無害なファンタジーの産物で、どうしても殺伐とした地獄には場違いよね。

　「また頭が狂った？」

　「平常だ。奇声もないだろ。そんなに信じられない、か？」

　「だって、深刻そうに言うから」

　「用心、しとけ。宙を泳ぐ魚は初めてだ」

　カンダタには未知に対する緊張があった。そこまでの緊迫をあたしは備えられない。

　「わかった。危険物が向こうかにある。それを頭の片隅に置いとけばいいんでしょ」

　適当な返答にカンダタは不満そうな顔をする。あたしは口論も聞かずに歩き出した。

　「こっちであってるのよね？」

　確認をかねて道を尋ねる。溜め息と共に頷いたカンダタは説教を諦めて先に進む。