ずれ 15

空腹、疲弊、恐怖を満たした脳内に囁いたのは甘い誘惑の匂いだった。

その囁きは目前の吊るされた人形から漂っていた。普段なら甘い誘惑に負けたりはしない。人形の正体を知るのを恐ろしいからだ。

本能も理性も危険だと叫んでいるのにこの飢えには敵わない。自分ではない、自分の物でもない欲望が曝け出す。

震える指先で黒い包帯に触れる。ほんの少し、爪の先程しか接触していないのに集まっていた蝶たちは刹那に羽ばたいて一羽の残らず過ぎ去っていく。目の前にいた蝶たちだけでなく、別の所に群がっていた蝶たちもあの一瞬で回廊の奥へと飛んで行く。静寂の回廊にはカンダタと謎の人形が残された。

驚き、身体を硬直させてしまったがあの甘い匂いはまだカンダタを誘う。

その誘惑に魅かれるまま、黒い一本の包帯を引き千切る。隠されていた正体が、包帯に巻かれていた赤い目が露わになった。自分自身と目が合う。

見間違えるはずがなく、似ているわけでもない。カンダタそのものが人形の正体だった。彼を誘っていた甘い香りは自身の血から漂っていた。

首には虫に刺された跡があり、赤く点々となって密集している。その穴の一つ一つから少量の血を流し、その小川は床へと滴り落ちる。

「腹が空いたんだろ」

逆さになった自分は意識があった。死人の目はカンダタを見つめて話す。カンダタは現状を飲み込めず、吊るされた自分の声も耳に入らなかった。

「ここは家畜小屋だ。食いもんには困らないぜ」

死人の目のまま口だけが笑う。すると小さな笑い声の重なりが背後から聞こえてくる。振り返れば何人ものカンダタが吊るされ 横たわり丸まって、同じ人間が同じ赤い目を光らせて笑い合う。小さな含み笑いから高らかな笑いまで、谺は広がる。その谺はまともなカンダタに「お前だけが異常者」だと面白おかしく笑う。

気が付けば、走っていた。自分が自分を笑うなんて、自分が自分を食うなんてありえない。

これは悪夢だ。呆けて寝ているのだ。夢よ、覚めてくれ。

願いが強ければ強いほど走り続けた。悪夢の出口が見つかるまで走る。哀訴した願いは尽きず、燃料となるはずだった。底なしの恐怖を抱えているはずなのに脱出を乞うていたはずなのにカンダタの脚は蝋を失くし、悲願の灯火は緩やかに消えていく。

血の沼に膝をついたカンダタは身体から力が湧かないのだと悟る。それは制御の利かない飢えから来るものだった。

恋焦がれる乾き、暴力的な空腹。それらが求めているのはなぜか血肉だった。

拒んで走って行ったのに今では後悔でしかない。食えばよかったと飲めばよかったとカンダタ自身を苦しめる。

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