ずれ 14
抉った痕がある腕には肉の筋が乱れ、骨が覗き、神経が引き千切れている。あれほどいた蝶は一羽もいなくなり、カンダタの周りにもだれもいなくなっていた。
「瑠璃?」
起き上がり、彼女を呼ぶも、声に反応する者はいなかった。
奇行に驚いて逃げてしまったのだろうか。単独行動は危険だ。探しに行かなければ。
瑠璃を呼びながら宛もなく探した。闇と血の沼しかない空間にカンダタの呼び声だけが響く。
歩き回っているうちにある違和感があった。歩くほどに時間が経つほどに背景が狭まっていくような感覚に陥る。
それは気のせいではない。広くて地平線ぐらいしか見えていなかったのに壁が見えていた。明らかに空間が狭まっている。戻るか迷ったが、進むことにする。進むしかない。いつでも、カンダタの選択はそれしか残されていない。
近づく天井に目配せしながら脚を動かす。
天井は手が届く位置にまで低くなり、壁は2人ぐらいなら通れる細さだ。洞窟より回廊と例えたほうが合う。
回廊を満たす血の沼は変わりなく、照らす光はない。振り返ればそこにあったはずの回廊はコンクリートの壁で塞がれ、いよいよ戻る術もなくなった。
道中、回廊の隅に丸まった虫の卵があった。それは間違いなく、天井に吊るされていたもので、それにも例外なく数羽の蝶が集る。
近くなってはっきりとその形を把握する。虫の卵は人の形をしていた。しかも、カンダタと同じ体格。
無意識に右腕を庇う。またおかしくなってしまうのではないのかと危惧する。できるだけ、黒い物体と離れて通る。
何事もなく過ぎると胸を撫で下ろすも、その安心はすぐになくなった。全く同じものが回廊に点在しており、天井から吊るされ、回廊の隅に転がっていた。
落ち着き始めていた心臓は強く脈打つ。恐怖で混乱しそうな身体に大丈夫と胸を撫で、呼吸を整える。そして、覚悟を決めて一歩を踏み込む。
蝶は血に反応していると、瑠璃が言っていたが、目の前の黒一色の蝶は傷を負ったカンダタには無関心だった。
ゆっくりと慎重に人の形をしている何かを避けて通る。一呼吸でさえ、神経をすり潰していた。
なのに、カンダタの腹は本能に忠実だった。よりにも寄って人形の前で間抜けな空腹音が鳴る。
心臓は止まり、脚も止まる。蝶たちはその音にも関心がなかった。だからと言って安心できるはずもなく荒くなった呼吸は腹の中の空白を誤魔化す。
いくら空気を吸っても、時間を置いても空腹は空腹のまま、カンダタの平静は取り戻せなかった。
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