ずれ 16
貪欲となっていた嗅覚はまたあの香りを捉えた。
膝がついて動かないはずの身体はその香りを辿る。
行きたくない。
自分自身に訴えた。そこにあるものは言わなくてもわかる。
狂ってしまいそうな恐怖があった。いや、もう、狂っているのかもしれない。
なぜなら、口角はあがり、目は倫理を失った獣そのものとなっていたからだ。
匂いのもとはやはりカンダタだった。
縦に寝転ぶカンダタは笑いもせず、喋りもしない。そっくりな人形かと思われたが、手首を触れてみると人らしい体温と脈動が本物の自分だと実感させた。
体温と脈動が意味するものとか、自分が自分を食うとか、考えていられない。飢えた怪物が餌を前にして口論などできるはずがないのだ。
この喉が潤せるなら、この胃袋が満たされるのなら人か鬼かなんてどうでもいい。
持ち上げたその右手を口へ運ぶ。まずは親指から。雑食性の平らな歯は親指の骨を砕き肉の筋を千切る。
口の中に芳香で甘美な味がしたのは確かだ。それを味わえなかったのはカンダタの親指に激痛が走ったからだ。
いつ、どのようにして、そうなったのか、全く見当がつかないのだが気が付けば天地が逆転し、何者かの手によって赤い床に倒され、右の親指を切断されていた。
受けていた暴行はカンダタが行ったのと同じものだ。親指を噛み千切ったのは自分じゃない自分だった。
そんなはずない。そこにいたのは俺のはず、俺が食う側だった。
困惑している間にもう一人の彼は残った指を食らおうと口を開く。
混乱している場合ではない。右手を強く振り解き、身体を起こしながら右の人差し指と中指で両の目を潰す。もう一人の彼は潰された視界と熱い瞼に身体を仰け反る。
自分から自分への暴行は止められず、自身の体に跨ると生を謳う首の動脈を手で押し潰すように絞める。もう一人の彼は抗い、絞めてくる両手を引きはがそうと腕、手を引っ掻く。それでも止まらない。
息の根を止めなければ。食われてしまう前に。早く早く食わなければ。この穴を埋めなければ。
抵抗していた両手は次第に力を失くし、引っ掻いていた手を下ろす。
舌は甘美を求めて涎が溢れて垂れる。人の肉でも自分の肉でも関係ない。このどうしようもない飢えを満たされるのなら、なんでもいい。
カンダタは喉元へと、歯と顎で食らおうとする。
甘美な血肉を求めた口内は意外にも空気を噛んだ。血も筋ばかりの肉もなく、歯と歯が噛みあった音だけが鳴った。
カンダタが殺したカンダタは忽然と消えた。
もともと奇妙な出来事が続いていたが、これだけは内から沸騰するねっとりとした不快な感情があった。怒り、怨みといった類のものだ。
カンダタにあった飢えが別の感情へと変わっていた。獲物を横取りされた怒り、求めていた欲求を満たされなくなった苛立ち。それに似ていた。
自らの首皮を爪で引っ掻き、腹から込みあげた咆哮は飢えからの渇望であり、落とされた絶望であり、それらは回廊を高く強く虚しく震わせた。
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