ずれ 12
「また話とかしたほうがいい?」
瑠璃の提案にカンダタはゆっくりと頷く。足を上げ、前へ置くだけでも精一杯だったが、この気分が少しでも紛れるのなら嫌味の多い話でも聞き入る。
「そうね、じゃあ、昔遭った事件の話でもしましょうか。あの日は連休なのに雨で、外出はしたくなかったんだけど、どうしてもマックのアップルパイが食べたくて」
砕けた口調から瑠璃の適当さが表れていた。カンダタには気を遣わず、現代で使われる単語ばかりを多用する。そんな理解が難しい話でもほんの少しだけ気分が紛れた。現世はすでにカンダタの知る時代ではなかった。全く知らない未知なる話は楽しい。
カンダタの意識は瑠璃の声と2人が織り成して交る波紋模様に向けられていた。声に合わせて波紋が律動を刻み、落ちる水音は旋律を、声は和声を奏でた。時折、「聞いているの」と瑠璃が問う。カンダタはそれに小さく頷いて答える。瑠璃から嫌味みたいなものを言われて気がしたが、聞こえていない風を装う。
体が重くなってきた。視界がぼやけて蝶の幻が目前ではためいた。
「蝶が」
沈黙を貫いていたカンダタが弱々しく呟く。
「蝶がいる」
カンダタの声は小さかったが、彼の言葉は瑠璃に不穏の顔を浮かべさせた。初めて脚を止めて、周辺を見渡す。しかし、そこに虫一匹の生命すらない。
「重傷ね」
傍目からみてもカンダタの不調は深刻なものだと判断できる。その上、いるはずのない蝶がいると発言したものだから瑠璃は肩をすくめる。
しかし、瑠璃は懐中電灯を上下左右に振り、見つからない蝶を探す。幻想だと言い切れない何かが彼女にあった。
「嘘でしょ」
瑠璃が何か見つけたらしい。光線が天井を照らして、それ以外の言葉を失う。天井には瑠璃を困惑せるものがあるらしい。カンダタも照らされた天井を仰ぐ。
丸い光線に照らされていたのは黒く吊るされた楕円状の物体だった。天井は高く、薄暗い場所ではその物体の詳細は掴めなかった。2m近くある楕円状のそれは黒い包帯のようなもので二重三重と巻かれており、中身は一切見せなかった。
それらが密集して天井を埋める。草の茎につく虫の卵に似ている。
この光景に言葉を失うのも当然なのだが、瑠璃の硬直はそれだけではなかった。
「蝶よ」
よくよく観察してみれば黒い虫の卵には蝶が群がり、卵に留まっては真上を羽ばたいていた。
黒い蝶。胸を縛られたような、内側から食われるような、計り知れない恐怖がカンダタを襲う。
「食われる」
思考を乱す悪臭と抗えない恐怖がそれを言わせた。
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