ずれ 11

 鬼は食欲がなくっており、漂う悪臭が弱らせていた。害はないと判断した瑠璃が焦りも見せずにカンダタに指示を出す。

 「上げて頂戴」

 赤い滝の頂を望む瑠璃に苦い気持ちになりながら、脚を持ち上げる。床に手を付ければ、袖は赤く染まって、ブラウスやシャツにまで謎の液体が染み込む。それも構わずに腹ばいになるとカンダタに手を差し出す。

 躊躇いがあった。マスクも鼻栓も無意味で、赤い粘液の悪臭はカンダタの脳に直接響かせていた。けれど、引き返す術もない。

 覚悟を決めて這い上がる。

 「本当に寄ってこないのね」

 カンダタを引き上げた後、懐中電灯で隅に潜む鬼を照らす。扇状の光線に鬼は目を眩ませて身を丸める。

 瑠璃を上げてカンダタが引き上がっていても、鬼は動かなかった。あれほどの凶暴で暴食ばかりの生き物が光線と悪臭を前にして、罪を懺悔する弱者と成り果てていた。この鬼に人を襲う余力は残っていない。

 扇状の光線は方向を変えて、カンダタたちが進むべき道を照らす。

 道と行ってもそこに道らしいものはない。地下駐車場のどこまでも続く闇と虚無の空間が広がり、コンクリートの重く暗い柱が均衡な間隔を空けて何十本もの列を作る。雫が赤い粘液の泉に落ちる水の音が不気味な静寂を飾る。

 臭いのもとである赤い泉は気色悪い泥のような粘着性を含み、足元まで浸る。腐った肉の臭いと鮮魚の生臭さ、あとは嘔吐した後に残る酸味。それらが混ざった悪臭がカンダタの顔を歪ませた。

 「そんなにひどい?」

 鼻栓もマスクもしていない瑠璃が聞いてくる。

 「頭が、おかしくなる」

 「臭いならすぐに慣れるわよ」

 そんなもの、期待できない。弱々しく首を振ってみるもその深刻さは伝わらない。

 「まぁ、戻れないし、進むしかないわよ」

 これまでにないほどの深いため息を吐き、そのうちに瑠璃は何事もなく、歩いて行く。

 「君は、俺よりも、勇ましい」

 鬼にも血の沼にも屈しない姿は感銘とまではいかないが、妬んだ言葉を送りたくなる。

 「あなたはあたしより臆病よね」

 彼女もまた言葉を返す。やはり、彼女を讃えるには彼女は嫌味っぽい。とても憧れは抱けない。

 しばらくの間。2人は真っ直ぐ歩いていた。これほど警戒を怠ったことはない。悪臭はカンダタの思考も歩調も遅らせていた。それでも、生物の気配は感じられなかった。この悪臭さえなければ穏やかな時間になっていたはずだ。

 当然、カンダタの歩調も遅くなっていたわけだが、そこは瑠璃が歩調を合わせてくれていた。瑠璃としてはカンダタを置いて行くつもりはなかった。彼女が一人で地上に戻れば鬼と対抗する手段がなくなってしまうからだ。瑠璃にとってカンダタは武器の一つでしかなかった。

 地下駐車場の洞窟はどこまでも赤く浸水し、脚を踏み出す度に波紋は広がり、同時に畝って蠢く百足の悪臭がカンダタの脳内を浸透する。

 「変ね」

 先導を行く瑠璃が歩みは止めずに呟く。

 「かなり歩いているのに壁も出口も見当たらない」

 いつまでも変わらぬ風景を2人は歩き続けていた。彼女の隠された不安は声色から滲んでいたが、気を遣う余力や言葉を返す思考もままならずにいた。

 「あたしにはわからないわね。臭いもしないし」

 そんなはずがない。これほど強烈な臭い、平気ではいられない。

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